大磯町のイメージ画像

大磯の小路歩きを始めるにあたり
私が東海道線を利用して都会の大学に通っていた学生時代。
列車が平塚駅をすぎて前方に大磯の丘陵が見え始めると、車窓から見える街の空気が変わってくるのがわかる。そして列車が大磯駅に到着したとき、決まって樹木を揺らす風の音を聞いたような気になる。
「いい町だな」――そう感じていたのは今から30年も前の事である。そして30年たった今、大磯を訪ねても、その印象は変わらない。
今回この街のあちこちを巡り、わかったことがある。この街には、いい路があるということだ。私好みの情緒と趣にあふれた路地が随所に巡らされている。
本来、路というものは、ある場所とある場所を結ぶ通路であり、目的地へ向かうための通過点であるが、大磯の路は、歩くこと自体が楽しくなるような、ワクワク感にあふれている。松林と潮騒、屋敷林、そして生垣………。別邸跡の小路を歩けば、樹齢を重ねた松の樹幹から木漏れ日が舞い落ち、神社近くの路地では古びた石垣の隙間から野の花が顔を覗かせている。どちらの光景にも思わず足を止め、見とれてしまうような趣がある。
この街に住んでいる人たちは、この路地の存在をどう思っているのだろうか? 
『大磯の小路を歩く』第1回目は大磯駅からのスタートし、あちこち覗きながら「海水浴場発祥の地」碑がある照ヶ崎へ向かってみる。


(編)

大磯駅 普通の駅にはあるべきものが!
大磯には風情あふれるスポットがいくつもあるが、それは駅自体にも言える。
駅舎は、今では懐かしい感じのする三角屋根の地上駅である。端然とたたずむその容姿は木造建築とあいまって、『関東の駅100選』にも選ばれている。
私が東海道線を利用していたその昔、大磯で列車が止まると、ある種の穏やかさを感じたものだ。その穏やかさは何だったのか、今回のまち歩きでようやく理解できた。駅の北側に照葉樹林の丘陵が迫り、緑がまばゆいということもあるが、もっと根本的な原因は看板にある。どこの駅にもあるホームの商店や会社の看板が、この大磯にはないのだ。観光協会の方にそう言われ、改めてホームを見てみると確かに看板がない。ホーム上の電飾看板も、線路脇の立て看板も見当たらない。

関東の駅100選にも選ばれているJR東日本「大磯駅」。三島由紀夫が、「東海道線で駅らしい駅と言えば、大磯駅だ」と言った話も伝えられている。
ホーム上にも線路脇も看板が見当たらない。(山側から撮影)

一日の乗降客が1万5千人というこぢんまりとした駅だが、東海道線の駅である。地方を走る1〜2両編成のローカル線ではない。首都圏への通勤圏である東海道本線の駅なのだ。
ご存知のとおり、大磯は伊藤博文を初め吉田茂など多くの政財界の大物が、別荘を構えた地である。その大磯の玄関ともいえる駅に、看板が並べられていたのでは見苦しい、ということで現在でも商業看板がない。
経済最優先、マネー至上主義の現代において、これは特筆すべきことだ。財政に窮した多くの自治体が公共施設の名称に企業名を冠し、少しでも稼ごうというセコい世の中で、民間になったJRが未だに明治期からの方針を貫いていることに感嘆を覚える。
恐るべし大磯、大磯という町の矜持と信念をこんな所にも見たような気になる。
ちなみに大磯駅が開設したのは1887年(明治20)7月。すでに新橋〜横浜間が開通していたが、明治19年、横浜〜国府津間が延長されることになった。当初、その間にできる駅は保土ヶ谷、藤沢、平塚の3ヶ所の予定だった。大磯では鉄道開通に伴い駅の誘致を町総出で行った。だが、なかなか実現しない。このとき町長と共に駅誘致の陣頭に立ったのが松本順である。
大磯の歴史を語るとき、この松本順という人物を抜きには語れない。この松本順こそ、1885年(明治18)に大磯の地に日本で初めて海水浴場を開いた人物なのである。海水浴場を開いたものの、最初のうちはほとんど客が来なかった。ここは、ぜひとも駅が欲しい。初代の陸軍軍医総監であった彼には政界にも大きな人脈があった。そこで時の総理である伊藤博文に話したところ、鶴の一声で大磯停車場が設けられたという。

駅前には「日本NO.1リゾート」の石碑と旧山口勝蔵邸

駅前の丘にはエリザベス・サンダースホームを設立した澤田美喜の記念館も

さて、駅を出てみると目の前には緑に覆われたこんもりとした丘がある。愛宕山という小さな丘である。ここには三菱財閥の2代目総帥である岩崎弥之助の別荘があった。現在は澤田美喜記念館とエリザベス・サンダースホーム、聖ステパノ学園になっている。
ローターリー右手を見ると、枝を伸ばしたケヤキの前に、なにやら石柱の上からぐにゃぐにゃと鉄棒が左右に張り出したようなオブジェが……。
これは1989年(平成元)町政施行100周年を迎えた記念に建てられた「大樹」というモニュメントである。

ロータリー右手に、あのオブジェが。
町政施行100周年記念モニュメント「大樹」
日本の避暑地NO.1に輝いた「海内第一避暑地」の碑
写真右は駅前より裏山を望む


このモニュメントが建てられた一画には「海内(かいだい)
第一避暑地」の碑がある。1908年(明治41)日本新聞社が、どこの避暑地がよいかという募集をしたところ、大磯が第1位になった記念に建てられた。「海内」とは国内という意味、つまり今風に言うなら当時の大磯は、「日本NO.1リゾート」の栄誉に輝いたまちだったのだ。
このとき惜しくも2位になったのが軽井沢、3位が天竜峡、4位伊東……県内では鎌倉11位、江ノ島39位だった。
大磯の駅前には岩崎家の別邸が建つ丘があるため、海に向かうには丘を挟んで左右どちらかの路を行かなくてはならない。右(西)に行けば鴫立庵、大磯の名所の一つである。そこからでも照ヶ崎は300メートルほどである。
しかし、私はあえて左(東)へ向かう。ロータリーに沿って少し行くと観光案内所がある。観光目的にまちを訪れる人にとっては何かと便利で心強い存在だ。貸し自転車もある。
ここで、ふと進行方向を見ると路が二手に分かれている。そして、その岐路の真ん中に白いコロニアル調の洒落た洋館が建っている。今ではイタリアンレストラン「ヴェントマリーノ」になっているが、これが旧山口勝蔵別荘である。明治末期に島津邸(佐土原藩)の土地の一部を木下建平が買い取り、その後、山口勝蔵邸となった。現存する日本最古のツーバイフォー工法である。一時は解体の危機にあったが何とか救われた。ヴェントマリーノのオーナー、この屋敷を活用してくれて「ありがとう」。

イタリアンレストランになっている旧山口勝蔵邸 正面に見える洋館(旧山口勝蔵邸)を挟んで右側の道を進んでみる。 旧山口勝蔵邸

エリザベス・サンダースホーム裏の路地と突然の切通し
照ヶ崎に行くにはバス通りを行ってもいいが、ここは、より趣のある右手の町道を行くことにする。
坂の上にど〜んと建てられたアクサ生命研修センターを見上げながら、坂を下るとマンションがあるが、ここはかつて芝浦製作所(東芝の前身)会長、三井銀行取締役を歴任した三井守乃助邸のあった場所。いまは面影もない。
坂を下り終えると、ちょうど地福寺の山門前である。この寺は梅の木が多く、文豪・島崎藤村の墓もある。

洒落た絵タイルの説明板
「明治のまち」コースにもなっている町道。
昭和53年から平成2年まで「さざんか祭」を行ったので、
さざんか通りと呼ばれたこともあった。
明治21年から22年ごろにかけて開削されている。
道端にはこんなほこらが。 
地福寺:島崎藤村の墓所がある 島崎藤村が愛した高麗石の石垣。エリザベス・サンダースホームの裏に当たり、地福寺山門脇より南西へ延びる。

地福寺の目の前には国道1号線が走り、渡れば海に出るが、ちょっと待て。ここに私好みの路地がある。地福寺山門脇から南西に伸びる路地、右側にはやや赤みを帯びた石垣が続く。
石垣に沿って、路地を進んで行くと、中ほどにエリザベス・サンダースホームの裏口が……。ここで初めて、この石垣はサンダースホームの外壁だったんだ、とわかる。じつはこの石垣は、高麗石(こまいし)でできている。昔は花水川の少し先に石切場があり、そこから採石されたものだ。島崎藤村もこの石垣が大好きだった。
詩集『落梅集』の冒頭で〈小諸なる古城のほとり……〉と吟じたように、藤村は一時期、長野の小諸に住んでいた。詩に登場した古城とは小諸城址のことで、ここの石垣が、エリザベス・サンダースホームの石垣と似ていたので、とても懐かしがっていたという。きっと藤村もこの路地を好んで歩いたのであろう。
ちなみに藤村が地福寺に骨を埋める気になったのも、この石垣があったからだと言われている。なるほど、藤村の墓の背後には、隣接するエリザベス・サンダースホームの高麗石の石垣が屹立していた。

ところで再三登場するエリザベス・サンダースホームとは、どのようなものなのだろう。すでにご存知の方も多いと思うが、今一度説明しておくと――エリザベス・サンダースホームとは、この丘に別邸を構えた三菱財閥3代目、岩崎久弥の長女・澤田美喜が戦後に建てた戦災孤児のための施設である。(別邸は明治24年、2代目、岩崎弥之助が建てた)
つまり島崎藤村が歩いた時代は、まだ岩崎家の別邸だった。
さて、時は移り、戦後のこと。
戦争が終結すると、敗戦国日本には、米兵が進駐してきた。米兵が街を闊歩しだすと、日本人女性との間に多くの混血児が生まれるようになった。しかし、多くの混血児は父親もわからず、母親からも見捨てられてしまうような時代だった。
外交官・澤田廉三と結婚し、外交官夫人として海外にも赴任していた彼女は、ロンドン滞在時に孤児院を視察した折、将来は慈善事業に取り組みたいと考えるようになっていた。
日本に戻ってからのある日のこと。満員列車に乗っていた彼女の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。彼女はこの嬰児の母親と間違えられ取調べを受けることになる。このときの衝撃的な出来事が、彼女の運命を決めてしまう。
「日本にはいま祝福されない大勢の混血孤児がいる。私はこの子らの母になる」と心に決めた彼女は、混血孤児養護施設建設のために奔走する。
財閥として名を成した岩崎家であるが、戦後の財閥解体により、資産はGHQによって凍結されていた。大磯にあったこの別邸も財産税として国に物納されている。親の援助など期待できなかった。
彼女は私財を投げ打ち、寄付を頼み、借金をし、ついに1947年(昭和22)、この愛宕山の別邸を買い戻し、翌年、混血孤児養護施設「エリザベス・サンダースホーム」をスタートさせたのである。このとき美喜、46歳。エリザベス・サンダースホームという名称は、寄付をしてくれた英国人女性の名に由来している。現在は彼女の記念館が建てられ、ホームは養護施設になっている。

左)澤田美喜のレリーフ
中央)澤田美喜記念館:結婚後キリスト教に改宗、慈愛の精神により孤児たちを養育。記念館は教会と資料館になっている。※拝観には予約が必要。平日のみの拝観。
右)隠れキシリタンの遺物の収集家でもあり、記念館内部には資料館も。

愛宕神社とエリザベス・サンダースホームとの間にある切通し。私が好きな一路である。(向かって右が愛宕神社の擁壁)

エリザベス・サンダースホームの裏側に当たるこの石垣の路地は百数十メートルほど行くと突き当たる。左に行けば海は近いが右を見ると、またもや「いい路」発見!
ぐぐっとせり立つ切通しがあるではないか。左右には土崩れを防ぐ擁壁が迫り、頭上には緑が覆いかぶさり、昼間でも薄暗い。途中、愛宕神社へ上がる階段入口があるが、ここは裏口。後ほど正面からお参りしよう。
短い距離の切通しだが、濡れた土の匂いと樹木の匂いが混じりあい、冷んやりとする。駅から200メートル足らずの場所に、こんなに路地があったとは、まさにワンダーである。町史によると明治27年にできた切通しだ。
そのまま路なりに歩き続けると、左側に石垣の家を見ながら、大磯小学校のグランド脇の道路に出てしまう。この道路は駅から右(二宮寄り)に向かい国道1号線に出る道路だ。
ずいぶん遠回りしてしまったが、ここまで来ると鴫立庵はもう目の前、照ヶ崎へも300メートル足らず。だが、ここで今一度、国道1号線に出た後、平塚寄りに移動し、愛宕神社へ寄ってみる。その途中、またしても私好みの小路が……。<次へ

 

取材協力 大磯ガイドボランティア協会
大磯町観光協会
大磯町役場観光推進室
参考資料 「おおいその歴史」大磯町発行
「大磯町史」大磯町発行
「大磯町史研究」大磯町発行
「大磯俳句読本」大磯町観光協会発行
「大磯まち歩きマップ――駅周辺」大磯ガイドボランティア協会発行
大磯町役場観光推進室運営管理HP Isotabi.com(イソタビドットコム)
インターネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」
三菱グループポータルサイトmitsubishi.com三菱人物伝「澤田美喜」
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