大磯町のイメージ画像

(後編)

明治からの石垣沿いにある可憐な小径
国道1号線、鴫立沢交差点に出たあとに、平塚方面へ進む。高札場跡を過ぎると、左手に「茶屋町公民館入口」という案内板が立つ路地がある(道路の向かいには、あの井上蒲鉾店がある辺り)。この路地を上がって行くと愛宕神社になるのだが、その前におっ! 私好みの石垣と花咲く路地を発見。

左)国道1号線、茶屋町公民館入口から愛宕神社へ続く上り坂の路地
右)突如、こんな立派な石垣が……。この石垣は明治からのもので何世帯もの宅地をぐるりと囲んでいる。(現在は一部が分断)

たまたまこの石垣のすぐ上にお住まいの方と立ち話ができたが、この石垣は明治からのもので、幾世帯分もが、この石垣で囲まれていたということだ。今では分断されているが、石垣はぐるりと続いている。

写真のように、石垣の角から、石垣沿いになんとも愛らしい路地があるではないか。あまりの狭さに私道かと思い、「通ってもいいですか?」と聞いたら、「どうぞどうぞ」ということなので通らしてもらった。2度折れ曲がり、すぐ西側の道に出る。
ちなみに路地に咲く花は、この石垣のお宅のご婦人が植えてくださったとのこと。いろいろ気を使ってくださり、ありがたい限り。

石垣脇の小径。世話をしてくれている人のお陰で、なんとも可憐で愛らしい径に。こんな小径なら、誰だって歩きたくなる


路地散策の醍醐味!こんな場所にお洒落な茶房が…
愛宕神社にお参りし、1号線に引き返す。
再び平塚方面へ進むと、すぐに照ヶ先海岸入口の交差点だが、その脇には西行饅頭で有名な「新杵」がある。大磯に行ったらコレって人も多いだろう。明治24年の創業で島崎藤村や吉田茂にも贔屓(ひいき)にされた店だ。
そのまま1号線を進むと中南信用金庫前には尾上本陣跡。さらにその先の、「そば処 古伊勢屋」脇には小島本陣跡が……。
江戸時代、宿場町でもあった大磯には本陣が3つあり、このあたりが大磯で最も賑やかだったことがわかる。いまでもこのあたりは商店が多く、大磯のメインストリートという雰囲気だ。

『新杵』の和菓子「西行」は大磯の名物のひとつ 大運寺
路地にある大磯珈琲庵。洒落た入り口、個人のお宅で営業している。 茶房は門を入って左通路の奥。テラス席もあるが夏は蚊も多い。庵ブレンド珈琲400円

ここまで来てしまったので、ついでに、すぐ先の大運寺に寄ってみよう。
大運寺は日本画家・安田靫彦や女性民権運動家で作家でもある中島湘烟の墓がある。それはさておき、山門脇から入るすごく狭い路地に、な、な、なんと茶房があるではないか!「大磯珈琲庵」。こんな人通りのすくない路地にあって、お客が来るのだろうかと心配してしまう。まさに隠れ家という呼び方がふさわしい店だ。


十郎と虎との恋物語はわずか3年で悲しき結末に
お茶を一杯ゴチソウになった後は、1号線を渡り、大運寺の向かいにある延台寺へ。
延台寺には「虎御石(とらごいし)」という曽我兄弟にちなんだ石が祀られている。

延台寺

曽我兄弟と言っても今では知らない人も多いに違いない。私もほとんど知らないので調べてみると………仇討ちで有名な兄弟の話で、時は鎌倉時代初頭のことだ。源頼朝が主催した富士の巻狩りの最中に兄弟が仇討ちを決行。殺されたのは頼朝の側近だったのだから、誰もがあっと驚く大事件だ。さしずめ現代ならニュース速報が流れ、TVは急遽、特番を組み、ワイドショーではレポーターが大はしゃぎ。新聞では1面トップに「曽我兄弟 巻狩りの最終日、宴の後の寝入りを襲い、仇討ち成功!」こんな文字が躍るに違いない。今では忠臣蔵と並ぶ日本三大仇討ちの一つになっている。
というのが曽我兄弟の仇討ちの話。ところで「虎御石」のことだが、この曽我兄弟の兄貴の十郎には虎という恋人がいた(名前はコワイがすごい美人だった。あまりの美しさゆえにお金持ちの養女になったくらい)。
さて、話はさかのぼり虎の両親がまだ彼女を身ごもる前、なかなか子宝にめぐまれなかった両親は、虎池弁財天に通い祈願をしたところ、ある朝この石が置かれていた。そこで今度は、その石を拝むと、女児を授かり、それが彼女(虎)だった。
不思議なことにこの石も、女児の成長と共に大きくなった。
時はたち、大磯に住んでいた虎が十郎の恋人になっていた頃、仇討ちの計略を知った相手側が十郎を討ち取ってしまえと、刺客を送り込んだ。矢を放ち、切りつけたが跳ね返された。よく見れば、この石だったということだ。変わり身の術か? 石には今でもその跡が残っている。

曽我兄弟ゆかりの「虎御石」御開帳は年に1度(5月)。Isotabi.comより転載

この石は5月の第3日曜もしくは第4日曜にご開帳される。触ると安産、大願成就、厄除けなどのご利益があるという。これだけの逸話をもつ「虎御石」、いずれにせよパワーストーンであることは間違いないだろう。
ちなみに、……仇討ちには成功したものの兄の方は討死に、弟は捕まり処刑。2人の恋はわずか3年で終わったが、彼女は生涯、十郎を偲び続けたという。


町がビンボーだから、自分たちで道路をつくる

大内館のカフェ「蔵にて」

延台寺からそのまま1号線を今度は二宮方面へ歩き、照ヶ崎海岸入口へ。
途中、大磯町の消防署を過ぎると、創業明治31年の旅館「大内館」がある。玄関脇には大正15年に上棟した石造りの蔵があり、この蔵が茶房となっている。こちらはコーヒー1杯700円。島崎藤村が大磯に居を構える前、この宿によく逗留した。
その先には「うなぎの國よし」「魚料理の魚辰」と食事処が続く。そういえば「大内館」でもランチサービスがある。
これらのお店を過ぎると照ヶ崎海岸入口だ。海に行くには別にここからでなくても、行けるのだが、あえてここから行く。ここが照ヶ崎へ向かうメインロードだからだ。

照ヶ崎海岸入口に立つ「照ヶ崎海水浴場」の碑

入口の交差点には、「照ヶ崎海水浴場」。大正4年5月建と書いてある。
前編で話したが、明治41年には駅前に、「海内第一避暑地の碑」が立つくらい大磯の海水浴は有名だった。海水浴客のための宿泊所が次々とでき、海水茶屋と呼ばれる休憩所も続々とできた。明治30年代には鉄道も往復割引を開始しているほどだ。
これほどの盛況振りにも関わらず、照ヶ崎へ向かう道はどれも小さなものばかり。漁師の家の軒下を通って行くような有様だった。
「これじゃ、しょうがねえ。もうちょっとマシな道を作ろうじゃねえか」という話になったが、町には金がない。
海水浴客は多かったのに財政難だった。台風や火事が多かったからね。
ちなみに1902(明治35)年には旧大磯町の家屋のうち3分の1以上が焼失してしまう大火に見舞われている。その数年前だって何回も火事にやられている。年表で見る限り、火事はしょっちゅうあった。
これじゃ、いつだって財政難だ。そんな金欠を見かねて、明治38年には、あの駅前に別邸を構えていた三井財閥の岩崎弥之助が、町に1000円の寄付を申し出てくれた。その額、町の歳入の1割というから、驚きだ。
というわけで、今回もみんなでお金を出し合って、道を作ろうという話になった。
医師の杉原惣治郎という人が中心となり、町民や別荘の人たちからお金を募り、大正4年5月に着工、国道から海岸ま130メートルほどが2年後の1917(大正6)年完成した。総工費は1万609円43銭5厘だった。
こんな大金、自分たちで工面するなんて大したものだ。やっぱり別荘を持っている方々は太っ腹だ。さっき話した明治35年の火事の時だって伊藤博文を初め別荘の人たちはたくさんの援助金をくれた。町内のお祭りだって金品の寄付がいろいろあったし、町内会費だって、たんまりと出してくれたのだ。


大磯が熱く燃える「御船祭」、今年は船形の山車が練り歩く
みんなでお金を出し合ってつくってくれた道を海へ向かうと、途中十字路がある。横切る道は鎌倉古道の一つで、地元では下町通りと呼んでいる。
そういえば、今年の7月17土・18日には御船祭(みふねまつり)が行なわれ、豪華な山車も登場する。大磯4大祭りの一つで、山車がでるのは2年に1度だ。

御船祭 isotabi.comより転載
(かながわの祭り50選)
船形の山車が曳航される下町通り、漁師町の雰囲気が残る

祭りのメインは船形をした山車(まつりぶね・かざりぶね、などとも言う)の運行。17日は宵宮で、山車がこの下町通りを練り歩くのは18日(日曜)の午前だ。舟歌や木遣謡が唄われる中、旗幟で彩られた2基の山車が行きかう様はまさに壮観。
ふだんは町の郷土資料館に実物(1基のみ)が展示してあるが、それが動き出すと思うとワクワクする。当日は各町内から神輿も出て、大磯は祭り一色、熱く燃えるぞ!
700年前から伝わるこの祭りは、高来神社の祭礼で、昔は神輿を船に乗せて花水川を下って照ヶ崎まで来ていた。が、あるとき台風で海上の渡御ができなくなったので、船形の山車を造り運行するようになった。
この御船祭が終わると、いよいよ夏も本番、海の町「大磯」が賑わいを見せる季節だ。


海水浴発祥の地、『照ヶ崎』、日本の渚100選にも。
照ヶ崎といっても、1号線から下ってきて目に入るのはまず大磯港だ。昔はこのあたり一面が岩場で、大磯八景の一つになるほど風光明媚な場所だった。(今だって、このあたりの海岸は「日本の渚100選」に選ばれている)

「日本の渚100選」にも選ばれている照ヶ崎海岸

西湘バイパスをくぐったあたりに、石塔が建っているのがおわかりになるだろう。高さ3メートル60センチ、御影石でできている立派なものだ。
これが、わが国初の海水浴場を大磯に開設した松本順の謝恩碑である。
なにしろ、江戸時代には宿場町としてそこそこ栄えていた大磯だけれど、明治になると参勤交代もなくなった。おまけに天皇の東京行幸などに借り出されて、あれやこれやと物入り。そんな折り、度重なる大火に見舞われ、町はさびれる一方だった。
「どうしよう……このままじゃ」と誰もが思っていたとき、この松本順という人が、たまたま大磯に来て「ここは海水浴に適しているぞ」と1885(明治18)年に海水浴場を開き、それが大当たり。町は有名になり、政財界の大物が別荘や住まいを構え、海水浴客が大挙して押し寄せるようになったのだから、まさに救世主、謝恩碑が立つのも当たり前。町は彼に「ここに家を建ててね」と土地まであげている。

松本順謝恩碑 医療行為として始められた当時の海水浴 大磯町郷土資料館所蔵(祷龍館繁栄之図より)

ところで日本初の海水浴場っていうけどさぁ、海があればどこでも泳げたんじゃないの?〈日本で初めて〉ってどうしてわかるの? 
という声が聞こえてきそうだが、ちょっと待って。日本で最初の海水浴は、泳いだり、海辺で寝そべったりする今のレジャーとはまったく異なる。れっきとした医療行為だったのだ。
なにしろ岩場に鉄の棒を打って、そこにつかまっているんだ。波で体がゆらりゆらり、〈塩湯治〉と言い方が合っているかもしれない。目の前には祷龍館(とうりゅうかん)という旅館と病院を兼ねた施設まで造っている。シツコイようだけど医療なんだから。
松本順という人は蘭学医で将軍・家茂(いえもち)や慶喜(よしのぶ)の侍医だった。一時期は病人だらけだった新撰組に週2回も往診している。初代の軍医総監になったほど、偉いお医者さんだったのだ。
でも、この海水浴、最初のうちには人気がなかったので、歌舞伎役者まで起用して宣伝をした。やがて人気がどんどん出てくるうちに、当初、岩場で行っていた医療行為から、だんだん波が静かな浅瀬で遊ぶ人が増えて、今のような娯楽に変わってしまったそうな……。


照ヶ崎海岸は、アオバトの「水飲み場」として県の天然記念物にも。
謝恩碑の脇から堤防に上がると、今でも残っている岩場が見える。夏場などは親子連れに人気の場所だ。
この岩場は照ヶ崎岩礁といって、アオバトの集団飛来地として県の天然記念物になっている。アオバトはふだん山の中にいるが、ときおり集団でこの岩礁にやって来て、海水を飲むんだ。木の実などでは補えないナトリウムを摂取しているという。

アオバト Isotabi.comより転載 アオバトの剥製(大磯町役場、玄関入ってすぐ右にある) 「めしや大磯港」水曜は定休日なので注意。シケのときも休み。

5月から10月くらいまで見ることができるが、ピークは7~8月。日の出から10時頃までと夕方によく現れる。でも、やっぱりチャンスが多いのは早朝だ。けっこうみんな見に来ているぞ。
とは言うものの、「早起きなんてムリ」という人も多いはず。そんな人は町役場に行こう。玄関入ってすぐ右側に、アオバトの剥製が展示されている。動かないけど、本物はこんな間近でみることできないし、贅沢は言わないでね。
さて、港を挟んで東側は海水浴場。シーズンになると10軒以上の海の家が軒を並べ、10万人ほどが訪れる。7月31日(土)には港の駐車場で「なぎさの祭典」を開催。今年は人気アーティストのEPOと白井貴子がメインゲスト。8時半ぐらいからは花火大会も……。
そういえば今年の4月に漁港直営の「めしや 大磯港」が港内にオープン。せっかく行ったのに、あいにくの定休日だった……ガクッ!

(次回は国道1号線、照ヶ崎海岸入口から海沿いの別荘地帯を歩きます。)次へ

駅前にある地場屋「ほっこり」で、こんなものを見つけました。
『本格芋焼酎 大磯紅あずま』

大磯産のサツマイモ「紅あずま」を原料に使用したアルコール度数25度の焼酎です。醸造は、長野県飯田市の喜久水酒造。地場屋「ほっこり」が製造を依頼し、商品化しています。720ml.1580円。(25度)
「お味はキリッとすっきり」とポップに書いてありましたが、水割りにして口に含むと芋の甘みがほのかに漂います。

 

 

取材協力 大磯ガイドボランティア協会
大磯町観光協会
大磯町役場観光推進室
参考資料 「おおいその歴史」大磯町発行
「大磯町史」大磯町発行
「大磯町史研究」大磯町発行
「大磯俳句読本」大磯町観光協会発行
「大磯まち歩きマップ――駅周辺」大磯ガイドボランティア協会発行
大磯町役場観光推進室運営管理HP Isotabi.com(イソタビドットコム)
インターネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」
  ※無断転載禁止
大磯駅前不動産「ジェイ企画」
〒255-0003神奈川県中郡大磯町大磯1009-20 TEL.0463-61-7720

Copyright(c)2008 J-Kikaku, Inc. All Rights Reserved.