大磯町のイメージ画像

線路の北側、鎌倉古道を中心に代官山の麓あたりまでを散策してみます(前編)

松本順や福田恒存の墓がある妙大寺
大磯駅より線路沿いを150メートルほど西に進むとJRのガードをくぐる十字路にぶつかる。十字路の正面は大磯小学校だ。今までの散策は線路より南側だったので、今回はガードをくぐり、線路の北側、東小磯・西小磯あたりをぷらりと歩いてみる。 ガードをくぐり、道なりに進むとすぐに日蓮宗の「妙大寺」がある。
この寺には大磯に海水浴場を開いた町の大恩人・松本順の墓がある。
この寺の西隣(御嶽神社付近まで)は、かつて町が彼のために寄贈した土地であり、そこに別邸を構えていた。松本順は1907(明治 40)年、3月12日、この別邸で亡くなった。満74歳だった。この「妙大寺」で葬儀が行われ、当初は鴫立庵に埋葬されたが1954(昭和29)年に妙大寺に改葬したという。
鴫立庵にある墓石同様、妙大寺の墓にも、やや扁平な球体の墓石が使われており、漢字一字で「守」と記されている。
墓石というイメージよりは、記念碑という感じである。墓碑に「守」という文字を記すのも凡人とはやはり違う。有名な人物だったにもかかわらず、自分の名前をことさら刻むことも希望せず、人々の健康を守り、家族を守り、国を守る、という意味の「守」を選んだことは、進取的な思想を持っていた人物の証であろう。暖かみのある丸い石は「守」のイメージにぴったりで、やさしさや包み込む感じを表現しているように思われる。

妙大寺 大磯に日本初の海水浴場を開いた松本順の墓。鴫立庵と同じく、やはり丸い墓石に「守」の文字が。 シェークスピアの翻訳・演出で知られる福田恒存(つねあり)の墓も妙大寺にある。
エルサレムの丘にその名を刻まれた樋口季一郎

また妙大寺には樋口季一郎の墓もある。
皆さん、樋口季一郎を知っていますか? 知らない? それなら日本のシンドラーといわれた杉原千畝(ちうね)なら知っていますか? 第二次世界大戦中に数千人のユダヤ人にビザを発給し、彼らの命を救った日本人外交官です。
しかし、その2年前、すでに二万人のユダヤ人を救った人物がいたのです。それが樋口季一郎です。
ちょっと長いけど、説明しますね。
1938(昭和13)年3月のこと、2万人近くのユダヤ人がナチスの迫害から逃れるため、ソ連〜満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅まで避難していた。しかし、ここから先は満州国、入国許可が降りず足止めをくらっていた。着の身着のまま、食料もなく困り果てていた。
当時、日本はドイツと友好関係にあったが、それにも拘わらず、ハルピン特務機関長であった樋口は「これは人道問題だ!」と、独断専行でユダヤ人救済を決意。部下と共に食料や衣類、燃料を配給し、さらに膠着状態にあった出国斡旋や、満州国内への入植斡旋等を行った。
戦後、ソ連は樋口を戦犯に指名したが、 NYに本部を置く世界ユダヤ人協会が「オトポールの恩を返すのは今」と樋口救助運動を広め、ソ連側への引渡しは拒否された。
イスラエル建国の際、ユダヤ民族のために貢献した人々の名を刻んだ「黄金の碑」(ゴールデンブック)がエルサレムの丘に建立されたが、その碑の4番目に樋口季一郎の名が「偉大なる人道主義者 ゼネラル樋口」と刻まれている。
その碑に最初に刻まれているのがモーゼ、その次がメンデルスゾーン、3番目がアインシュタイン、そして樋口。錚々たるメンバーの中の4番目、何人が記されているかわかりませんが、これは凄いことじゃないですか。
こんな人が大磯に住んでいたんですね。

日本のシンドラー杉原千畝と並ぶユダヤ人を救済の立役者・樋口季一郎の墓 妙大寺前の道。すぐ先から一方通行になり車は進入禁止。 妙大寺付近より線路方向へ向かう小路。竹垣が続き穏やかな空気を醸し出している。

怖い言い伝えがある御岳神社
妙大寺の西隣には先ほども言ったが、松本順の邸宅があった。
松本順亡き後、そこに住んだのが日英同盟の外交に尽力した加藤高明である。後に首相となる加藤がここに住んだのは1902(明治35)年頃、庭に英国から取り寄せたバラの苗でみごとなバラ園を造ったという。
また庭内にはミカン園もあり、毎年2月21日の紀元節にはたくさんのミカンを大磯小学校へ寄贈したという。
加藤邸跡を過ぎると右手に御嶽神社がある。

御岳神社

参道に大イチョウがあるが、このイチョウの木、恐ろしい言い伝えがある。昔々の話だが、草木も眠る丑(うし)三つ時に白装束(しろしょうぞく)姿でこの木の所に行き、手にした人形を幹に押しつけや、呪いの言葉をつぶやきながら五寸釘を打ち付けるというものだ。ご存じ、平安時代から伝わる「呪いのワラ人形」である。
本当だったんでしょうか。夜は怖くて近寄れません。


さて、今、私が歩いているこの道は鎌倉古道(山道)の一つであり、明治期には別邸も多くあった。
御嶽神社を過ぎたあたりには薩摩出身の実業家、赤星弥之助の別邸があった。古美術収集家でも知られた彼は、1904(明治37)年頃、1万坪の敷地にショサイヤ・コンドル設計による赤星御殿といわれた洋館を建てた。残念なことに、今その面影は感じられない。
なお平塚市美術館には黒田清輝が描いた『赤星弥之助像』が所蔵されている。(現在、展示はされていない)

エクレール大磯脇の小径はしっとりとした情緒が……
さらに少し進むと、山側に上る道があるが、その角地あたりに三井養之助の別邸があった。三井銀行と同時に開業した三井物産の初代社主で、渋沢栄一らと東京株式取引所を設立した人物である。1900(明治33)年に別邸を構えているが、今は跡形もない。だが、このあたりには往時の雰囲気が残っており、言われてみると「あっ、なるほどね」というような情緒が感じられる。
道は山側に続いていくが、今回はそちらに向かわず、マンション「エクレール大磯」入口脇にある電話ボックス横の小径をたどることにする。電話ボックス脇には「明治のみち」コースの案内標識にも立っており、散策の推奨コースにもなっていることがわかる。
この小径も私の気に入っている道の一つで、脇には水路が流れており、あたりの樹木で昼間でもしっとりとしており、とても閑静である。水路沿いの樹木越しにはマンション「エクレール大磯」の建物が垣間見える。
「エクレール大磯」は1985年建築、総世帯27戸のこぢんまりとしたマンションだが、敷地は広く3階建て6棟が林の中にひっそりと佇んでいる。
じつに落ち着いた雰囲気であるのだが、写真で紹介することはできない。今までいくつかのマンションの外観を無許可で撮影してしまったが、こちらのマンションは外からでは撮影できず、管理人にお願いしたが撮影許可が下りなかった。

三井養之助邸があった通り。実際に歩いてみると今でも当時の面影が残っていることがわかる。

  「エクレール大磯」南側の小径、脇を水路が流れ樹木の多い情緒ある道だ。
突如、現れる稲荷の森にはびっくり

絵本に出てきそうなこの小径をほんの20〜30メートルほど進むと、左手(南側)に入る道がある。入ってみると、突如、鬱蒼とした森が現れる。よく見ると、社が建っており、それが「一本松稲荷」であることがわかる。
まさか、こんな場所に昼間も暗き社の森があるとは思わず、最初に訪ねたときにはかなりインパクトがあった。
昔は大きな一本松があったそうだが、今はない。その代わり、樹齢300年を超えるタブの木がある。とにかく社の周りは樹木が生い茂り、古色蒼然とした雰囲気に彩られている。
現在の稲荷は、すぐ西隣に住んでいた日本画家の安田靫彦(やすだ ゆきひこ)が設計したものだそうだ。安田靫彦といえば焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった歴史画の大家である。
彼が大磯に住んでいたとは知らなかった。
調べてみると、大磯には政治家や軍人、実業家以外にも、島崎藤村はもとより獅子文六や中村吉右衛門、尾上菊五郎、佐々木信綱、福田恒存、加山又造、山本丘人など多くの文化人が住んでいた。
今でも加山又造の長男である陶芸家の加山哲也は大磯で作陶しているし、画家の堀文子も大磯に住み精力的に制作活動をしている。ベストセラー作家の村上春樹の住まいもあるが、本人が海外に住んでいるのでほとんどこちらにはいないらしい。
いずれにしろ、大磯には今でも多くの文化人が住んでいる。
さて、元の小径に戻り、先を急ぐことにしよう。 次へ

この道の先に一本松稲荷が。 一本松稲荷の森 安田靫彦の設計により改築された稲荷社

根元がつながった相胴のタブの木、樹齢300年。木肌に歴史が感じられる。

取材協力 大磯ガイドボランティア協会
大磯町観光協会
大磯町役場観光推進室・都市計画課
参考資料 「おおいその歴史」大磯町発行
「大磯町史」大磯町発行
「大磯町史研究」大磯町発行
「大磯俳句読本」大磯町観光協会発行
「大磯まち歩きマップ――駅周辺」大磯ガイドボランティア協会発行
大磯町役場観光推進室運営管理HP Isotabi.com(イソタビドットコム)
インターネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」
「ふるさと大磯」高橋光著 郷土資料研究会発行
  ※無断転載禁止
大磯駅前不動産「ジェイ企画」
〒255-0003神奈川県中郡大磯町大磯1009-20 TEL.0463-61-7720

Copyright(c)2008 J-Kikaku, Inc. All Rights Reserved.