取材協力
大磯ガイドボランティア協会
大磯町観光協会
大磯町役場観光推進室
参考資料
「おおいその歴史」大磯町発行
「大磯町史」大磯町発行
「大磯町史研究」大磯町発行
「大磯俳句読本」大磯町観光協会発行
「大磯まち歩きマップ――駅周辺」大磯ガイドボランティア協会発行
大磯町役場観光推進室運営管理HP Isotabi.com
インターネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」
企画・監修 : 株式会社ジェイ企画 ※無断転載禁止
大磯の小路歩きを始めるに
私が東海道線を利用して都会の大学に通っていた学生時代。
列車が平塚駅をすぎて前方に大磯の丘陵が見え始めると、車窓から見える街の空気が変わってくるのがわかる。そして列車が大磯駅に到着したとき、決まって樹木を揺らす風の音を聞いたような気になる。
「いい町だな」――そう感じていたのは今から30年も前の事である。そして30年たった今、大磯を訪ねても、その印象は変わらない。
今回この街のあちこちを巡り、わかったことがある。この街には、いい路があるということだ。私好みの情緒と趣にあふれた路地が随所に巡らされている。
本来、路というものは、ある場所とある場所を結ぶ通路であり、目的地へ向かうための通過点であるが、大磯の路は、歩くこと自体が楽しくなるような、ワクワク感にあふれている。松林と潮騒、屋敷林、そして生垣………。別邸跡の小路を歩けば、樹齢を重ねた松の樹幹から木漏れ日が舞い落ち、神社近くの路地では古びた石垣の隙間から野の花が顔を覗かせている。どちらの光景にも思わず足を止め、見とれてしまうような趣がある。
この街に住んでいる人たちは、この路地の存在をどう思っているのだろうか?
『大磯の小路を歩く』第1回目は大磯駅からのスタートし、あちこち覗きながら「海水浴場発祥の地」碑がある照ヶ崎へ向かってみる。
大磯駅 普通の駅にはあるべきものが!
大磯には風情あふれるスポットがいくつもあるが、それは駅自体にも言える。
駅舎は、今では懐かしい感じのする三角屋根の地上駅である。端然とたたずむその容姿は木造建築とあいまって、『関東の駅100選』にも選ばれている。
私が東海道線を利用していたその昔、大磯で列車が止まると、ある種の穏やかさを感じたものだ。その穏やかさは何だったのか、今回のまち歩きでようやく理解できた。駅の北側に照葉樹林の丘陵が迫り、緑がまばゆいということもあるが、もっと根本的な原因は看板にある。どこの駅にもあるホームの商店や会社の看板が、この大磯にはないのだ。観光協会の方にそう言われ、改めてホームを見てみると確かに看板がない。ホーム上の電飾看板も、線路脇の立て看板も見当たらない。
一日の乗降客が1万5千人というこぢんまりとした駅だが、東海道線の駅である。地方を走る1~2両編成のローカル線ではない。首都圏への通勤圏である東海道本線の駅なのだ。
ご存知のとおり、大磯は伊藤博文を初め吉田茂など多くの政財界の大物が、別荘を構えた地である。その大磯の玄関ともいえる駅に、看板が並べられていたのでは見苦しい、ということで現在でも商業看板がない。
経済最優先、マネー至上主義の現代において、これは特筆すべきことだ。財政に窮した多くの自治体が公共施設の名称に企業名を冠し、少しでも稼ごうというセコい世の中で、民間になったJRが未だに明治期からの方針を貫いていることに感嘆を覚える。
恐るべし大磯、大磯という町の矜持と信念をこんな所にも見たような気になる。
ちなみに大磯駅が開設したのは1887年(明治20)7月。すでに新橋~横浜間が開通していたが、明治19年、横浜~国府津間が延長されることになった。当初、その間にできる駅は保土ヶ谷、藤沢、平塚の3ヶ所の予定だった。大磯では鉄道開通に伴い駅の誘致を町総出で行った。だが、なかなか実現しない。このとき町長と共に駅誘致の陣頭に立ったのが松本順である。
大磯の歴史を語るとき、この松本順という人物を抜きには語れない。この松本順こそ、1885年(明治18)に大磯の地に日本で初めて海水浴場を開いた人物なのである。海水浴場を開いたものの、最初のうちはほとんど客が来なかった。ここは、ぜひとも駅が欲しい。初代の陸軍軍医総監であった彼には政界にも大きな人脈があった。そこで時の総理である伊藤博文に話したところ、鶴の一声で大磯停車場が設けられたという。
駅前には「日本NO.1リゾート」の石碑と旧山口勝蔵邸
さて、駅を出てみると目の前には緑に覆われたこんもりとした丘がある。愛宕山という小さな丘である。ここには三菱財閥の2代目総帥である岩崎弥之助の別荘があった。現在は澤田美喜記念館とエリザベス・サンダースホーム、聖ステパノ学園になっている。
ローターリー右手を見ると、枝を伸ばしたケヤキの前に、なにやら石柱の上からぐにゃぐにゃと鉄棒が左右に張り出したようなオブジェが……。
これは1989年(平成元)町政施行100周年を迎えた記念に建てられた「大樹」というモニュメントである。
このモニュメントが建てられた一画には「海内(かいだい)第一避暑地」の碑がある。1908年(明治41)日本新聞社が、どこの避暑地がよいかという募集をしたところ、大磯が第1位になった記念に建てられた。「海内」とは国内という意味、つまり今風に言うなら当時の大磯は、「日本NO.1リゾート」の栄誉に輝いたまちだったのだ。
このとき惜しくも2位になったのが軽井沢、3位が天竜峡、4位伊東……県内では鎌倉11位、江ノ島39位だった。
大磯の駅前には岩崎家の別邸が建つ丘があるため、海に向かうには丘を挟んで左右どちらかの路を行かなくてはならない。右(西)に行けば鴫立庵、大磯の名所の一つである。そこからでも照ヶ崎は300メートルほどである。
しかし、私はあえて左(東)へ向かう。ロータリーに沿って少し行くと観光案内所がある。観光目的にまちを訪れる人にとっては何かと便利で心強い存在だ。貸し自転車もある。
ここで、ふと進行方向を見ると路が二手に分かれている。そして、その岐路の真ん中に白いコロニアル調の洒落た洋館が建っている。今ではイタリアンレストラン「ヴェントマリーノ」になっているが、これが旧山口勝蔵別荘である。明治末期に島津邸(佐土原藩)の土地の一部を木下建平が買い取り、その後、山口勝蔵邸となった。現存する日本最古のツーバイフォー工法である。一時は解体の危機にあったが何とか救われた。ヴェントマリーノのオーナー、この屋敷を活用してくれて「ありがとう」。
エリザベス・サンダースホーム裏の路地と突然の切通し
照ヶ崎に行くにはバス通りを行ってもいいが、ここは、より趣のある右手の町道を行くことにする。
坂の上にど~んと建てられたアクサ生命研修センターを見上げながら、坂を下るとマンションがあるが、ここはかつて芝浦製作所(東芝の前身)会長、三井銀行取締役を歴任した三井守乃助邸のあった場所。いまは面影もない。
坂を下り終えると、ちょうど地福寺の山門前である。この寺は梅の木が多く、文豪・島崎藤村の墓もある。
地福寺の目の前には国道1号線が走り、渡れば海に出るが、ちょっと待て。ここに私好みの路地がある。地福寺山門脇から南西に伸びる路地、右側にはやや赤みを帯びた石垣が続く。
石垣に沿って、路地を進んで行くと、中ほどにエリザベス・サンダースホームの裏口が……。ここで初めて、この石垣はサンダースホームの外壁だったんだ、とわかる。じつはこの石垣は、高麗石(こまいし)でできている。昔は花水川の少し先に石切場があり、そこから採石されたものだ。島崎藤村もこの石垣が大好きだった。
詩集『落梅集』の冒頭で〈小諸なる古城のほとり……〉と吟じたように、藤村は一時期、長野の小諸に住んでいた。詩に登場した古城とは小諸城址のことで、ここの石垣が、エリザベス・サンダースホームの石垣と似ていたので、とても懐かしがっていたという。きっと藤村もこの路地を好んで歩いたのであろう。
ちなみに藤村が地福寺に骨を埋める気になったのも、この石垣があったからだと言われている。なるほど、藤村の墓の背後には、隣接するエリザベス・サンダースホームの高麗石の石垣が屹立していた。
ところで再三登場するエリザベス・サンダースホームとは、どのようなものなのだろう。すでにご存知の方も多いと思うが、今一度説明しておくと――エリザベス・サンダースホームとは、この丘に別邸を構えた三菱財閥3代目、岩崎久弥の長女・澤田美喜が戦後に建てた戦災孤児のための施設である。(別邸は明治24年、2代目、岩崎弥之助が建てた)
つまり島崎藤村が歩いた時代は、まだ岩崎家の別邸だった。
さて、時は移り、戦後のこと。
戦争が終結すると、敗戦国日本には、米兵が進駐してきた。米兵が街を闊歩しだすと、日本人女性との間に多くの混血児が生まれるようになった。しかし、多くの混血児は父親もわからず、母親からも見捨てられてしまうような時代だった。
外交官・澤田廉三と結婚し、外交官夫人として海外にも赴任していた彼女は、ロンドン滞在時に孤児院を視察した折、将来は慈善事業に取り組みたいと考えるようになっていた。
日本に戻ってからのある日のこと。満員列車に乗っていた彼女の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。彼女はこの嬰児の母親と間違えられ取調べを受けることになる。このときの衝撃的な出来事が、彼女の運命を決めてしまう。
「日本にはいま祝福されない大勢の混血孤児がいる。私はこの子らの母になる」と心に決めた彼女は、混血孤児養護施設建設のために奔走する。
財閥として名を成した岩崎家であるが、戦後の財閥解体により、資産はGHQによって凍結されていた。大磯にあったこの別邸も財産税として国に物納されている。親の援助など期待できなかった。
彼女は私財を投げ打ち、寄付を頼み、借金をし、ついに1947年(昭和22)、この愛宕山の別邸を買い戻し、翌年、混血孤児養護施設「エリザベス・サンダースホーム」をスタートさせたのである。このとき美喜、46歳。エリザベス・サンダースホームという名称は、寄付をしてくれた英国人女性の名に由来している。現在は彼女の記念館が建てられ、ホームは養護施設になっている。
エリザベス・サンダースホームの裏側に当たるこの石垣の路地は百数十メートルほど行くと突き当たる。左に行けば海は近いが右を見ると、またもや「いい路」発見!
ぐぐっとせり立つ切通しがあるではないか。左右には土崩れを防ぐ擁壁が迫り、頭上には緑が覆いかぶさり、昼間でも薄暗い。途中、愛宕神社へ上がる階段入口があるが、ここは裏口。後ほど正面からお参りしよう。
短い距離の切通しだが、濡れた土の匂いと樹木の匂いが混じりあい、冷んやりとする。駅から200メートル足らずの場所に、こんなに路地があったとは、まさにワンダーである。町史によると明治27年にできた切通しだ。
そのまま路なりに歩き続けると、左側に石垣の家を見ながら、大磯小学校のグランド脇の道路に出てしまう。この道路は駅から右(二宮寄り)に向かい国道1号線に出る道路だ。
ずいぶん遠回りしてしまったが、ここまで来ると鴫立庵はもう目の前、照ヶ崎へも300メートル足らず。だが、ここで今一度、国道1号線に出た後、平塚寄りに移動し、愛宕神社へ寄ってみる。その途中、またしても私好みの小路が……。
明治からの石垣沿いにある可憐な小径
国道1号線、鴫立沢交差点に出たあとに、平塚方面へ進む。高札場跡を過ぎると、左手に「茶屋町公民館入口」という案内板が立つ路地がある(道路の向かいには、あの井上蒲鉾店がある辺り)。この路地を上がって行くと愛宕神社になるのだが、その前におっ! 私好みの石垣と花咲く路地を発見。
たまたまこの石垣のすぐ上にお住まいの方と立ち話ができたが、この石垣は明治からのもので、幾世帯分もが、この石垣で囲まれていたということだ。今では分断されているが、石垣はぐるりと続いている。写真のように、石垣の角から、石垣沿いになんとも愛らしい路地があるではないか。あまりの狭さに私道かと思い、「通ってもいいですか?」と聞いたら、「どうぞどうぞ」ということなので通らしてもらった。2度折れ曲がり、すぐ西側の道に出る。
ちなみに路地に咲く花は、この石垣のお宅のご婦人が植えてくださったとのこと。いろいろ気を使ってくださり、ありがたい限り。
路地散策の醍醐味!
こんな場所にお洒落な茶房が…
愛宕神社にお参りし、1号線に引き返す。
再び平塚方面へ進むと、すぐに照ヶ先海岸入口の交差点だが、その脇には西行饅頭で有名な「新杵」がある。大磯に行ったらコレって人も多いだろう。明治24年の創業で島崎藤村や吉田茂にも贔屓(ひいき)にされた店だ。
そのまま1号線を進むと中南信用金庫前には尾上本陣跡。さらにその先の、「そば処 古伊勢屋」脇には小島本陣跡が……。
江戸時代、宿場町でもあった大磯には本陣が3つあり、このあたりが大磯で最も賑やかだったことがわかる。いまでもこのあたりは商店が多く、大磯のメインストリートという雰囲気だ。
ここまで来てしまったので、ついでに、すぐ先の大運寺に寄ってみよう。
大運寺は日本画家・安田靫彦や女性民権運動家で作家でもある中島湘烟の墓がある。それはさておき、山門脇から入るすごく狭い路地に、な、な、なんと茶房があるではないか!「大磯珈琲庵」。こんな人通りのすくない路地にあって、お客が来るのだろうかと心配してしまう。まさに隠れ家という呼び方がふさわしい店だ。
十郎と虎との恋物語はわずか3年で悲しき結末に
お茶を一杯ゴチソウになった後は、1号線を渡り、大運寺の向かいにある延台寺へ。
延台寺には「虎御石(とらごいし)」という曽我兄弟にちなんだ石が祀られている。
曽我兄弟と言っても今では知らない人も多いに違いない。私もほとんど知らないので調べてみると………仇討ちで有名な兄弟の話で、時は鎌倉時代初頭のことだ。源頼朝が主催した富士の巻狩りの最中に兄弟が仇討ちを決行。殺されたのは頼朝の側近だったのだから、誰もがあっと驚く大事件だ。さしずめ現代ならニュース速報が流れ、TVは急遽、特番を組み、ワイドショーではレポーターが大はしゃぎ。新聞では1面トップに「曽我兄弟 巻狩りの最終日、宴の後の寝入りを襲い、仇討ち成功!」こんな文字が躍るに違いない。今では忠臣蔵と並ぶ日本三大仇討ちの一つになっている。
というのが曽我兄弟の仇討ちの話。ところで「虎御石」のことだが、この曽我兄弟の兄貴の十郎には虎という恋人がいた(名前はコワイがすごい美人だった。あまりの美しさゆえにお金持ちの養女になったくらい)。
さて、話はさかのぼり虎の両親がまだ彼女を身ごもる前、なかなか子宝にめぐまれなかった両親は、虎池弁財天に通い祈願をしたところ、ある朝この石が置かれていた。そこで今度は、その石を拝むと、女児を授かり、それが彼女(虎)だった。
不思議なことにこの石も、女児の成長と共に大きくなった。
時はたち、大磯に住んでいた虎が十郎の恋人になっていた頃、仇討ちの計略を知った相手側が十郎を討ち取ってしまえと、刺客を送り込んだ。矢を放ち、切りつけたが跳ね返された。よく見れば、この石だったということだ。変わり身の術か? 石には今でもその跡が残っている。
この石は5月の第3日曜もしくは第4日曜にご開帳される。触ると安産、大願成就、厄除けなどのご利益があるという。これだけの逸話をもつ「虎御石」、いずれにせよパワーストーンであることは間違いないだろう。
ちなみに、……仇討ちには成功したものの兄の方は討死に、弟は捕まり処刑。2人の恋はわずか3年で終わったが、彼女は生涯、十郎を偲び続けたという。
町がビンボーだから、自分たちで道路をつくる
延台寺からそのまま1号線を今度は二宮方面へ歩き、照ヶ崎海岸入口へ。
途中、大磯町の消防署を過ぎると、創業明治31年の旅館「大内館」がある。玄関脇には大正15年に上棟した石造りの蔵があり、この蔵が茶房となっている。こちらはコーヒー1杯700円。島崎藤村が大磯に居を構える前、この宿によく逗留した。
その先には「うなぎの國よし」「魚料理の魚辰」と食事処が続く。そういえば「大内館」でもランチサービスがある。
これらのお店を過ぎると照ヶ崎海岸入口だ。海に行くには別にここからでなくても、行けるのだが、あえてここから行く。ここが照ヶ崎へ向かうメインロードだからだ。
入口の交差点には、「照ヶ崎海水浴場」。大正4年5月建と書いてある。
前編で話したが、明治41年には駅前に、「海内第一避暑地の碑」が立つくらい大磯の海水浴は有名だった。海水浴客のための宿泊所が次々とでき、海水茶屋と呼ばれる休憩所も続々とできた。明治30年代には鉄道も往復割引を開始しているほどだ。
これほどの盛況振りにも関わらず、照ヶ崎へ向かう道はどれも小さなものばかり。漁師の家の軒下を通って行くような有様だった。
「これじゃ、しょうがねえ。もうちょっとマシな道を作ろうじゃねえか」という話になったが、町には金がない。
海水浴客は多かったのに財政難だった。台風や火事が多かったからね。
ちなみに1902(明治35)年には旧大磯町の家屋のうち3分の1以上が焼失してしまう大火に見舞われている。その数年前だって何回も火事にやられている。年表で見る限り、火事はしょっちゅうあった。
これじゃ、いつだって財政難だ。そんな金欠を見かねて、明治38年には、あの駅前に別邸を構えていた三井財閥の岩崎弥之助が、町に1000円の寄付を申し出てくれた。その額、町の歳入の1割というから、驚きだ。
というわけで、今回もみんなでお金を出し合って、道を作ろうという話になった。
医師の杉原惣治郎という人が中心となり、町民や別荘の人たちからお金を募り、大正4年5月に着工、国道から海岸ま130メートルほどが2年後の1917(大正6)年完成した。総工費は1万609円43銭5厘だった。
こんな大金、自分たちで工面するなんて大したものだ。やっぱり別荘を持っている方々は太っ腹だ。さっき話した明治35年の火事の時だって伊藤博文を初め別荘の人たちはたくさんの援助金をくれた。町内のお祭りだって金品の寄付がいろいろあったし、町内会費だって、たんまりと出してくれたのだ。
大磯が熱く燃える「御船祭」、今年は船形の山車が練り歩く
みんなでお金を出し合ってつくってくれた道を海へ向かうと、途中十字路がある。横切る道は鎌倉古道の一つで、地元では下町通りと呼んでいる。
そういえば、今年の7月17土・18日には御船祭(みふねまつり)が行なわれ、豪華な山車も登場する。大磯4大祭りの一つで、山車がでるのは2年に1度だ。
祭りのメインは船形をした山車(まつりぶね・かざりぶね、などとも言う)の運行。17日は宵宮で、山車がこの下町通りを練り歩くのは18日(日曜)の午前だ。舟歌や木遣謡が唄われる中、旗幟で彩られた2基の山車が行きかう様はまさに壮観。
ふだんは町の郷土資料館に実物(1基のみ)が展示してあるが、それが動き出すと思うとワクワクする。当日は各町内から神輿も出て、大磯は祭り一色、熱く燃えるぞ!
700年前から伝わるこの祭りは、高来神社の祭礼で、昔は神輿を船に乗せて花水川を下って照ヶ崎まで来ていた。が、あるとき台風で海上の渡御ができなくなったので、船形の山車を造り運行するようになった。
この御船祭が終わると、いよいよ夏も本番、海の町「大磯」が賑わいを見せる季節だ。
海水浴発祥の地、『照ヶ崎』、日本の渚100選にも
照ヶ崎といっても、1号線から下ってきて目に入るのはまず大磯港だ。昔はこのあたり一面が岩場で、大磯八景の一つになるほど風光明媚な場所だった。(今だって、このあたりの海岸は「日本の渚100選」に選ばれている)
西湘バイパスをくぐったあたりに、石塔が建っているのがおわかりになるだろう。高さ3メートル60センチ、御影石でできている立派なものだ。
これが、わが国初の海水浴場を大磯に開設した松本順の謝恩碑である。
なにしろ、江戸時代には宿場町としてそこそこ栄えていた大磯だけれど、明治になると参勤交代もなくなった。おまけに天皇の東京行幸などに借り出されて、あれやこれやと物入り。そんな折り、度重なる大火に見舞われ、町はさびれる一方だった。
「どうしよう……このままじゃ」と誰もが思っていたとき、この松本順という人が、たまたま大磯に来て「ここは海水浴に適しているぞ」と1885(明治18)年に海水浴場を開き、それが大当たり。町は有名になり、政財界の大物が別荘や住まいを構え、海水浴客が大挙して押し寄せるようになったのだから、まさに救世主、謝恩碑が立つのも当たり前。町は彼に「ここに家を建ててね」と土地まであげている。
ところで日本初の海水浴場っていうけどさぁ、海があればどこでも泳げたんじゃないの?〈日本で初めて〉ってどうしてわかるの?
という声が聞こえてきそうだが、ちょっと待って。日本で最初の海水浴は、泳いだり、海辺で寝そべったりする今のレジャーとはまったく異なる。れっきとした医療行為だったのだ。
なにしろ岩場に鉄の棒を打って、そこにつかまっているんだ。波で体がゆらりゆらり、〈塩湯治〉と言い方が合っているかもしれない。目の前には祷龍館(とうりゅうかん)という旅館と病院を兼ねた施設まで造っている。シツコイようだけど医療なんだから。
松本順という人は蘭学医で将軍・家茂(いえもち)や慶喜(よしのぶ)の侍医だった。一時期は病人だらけだった新撰組に週2回も往診している。初代の軍医総監になったほど、偉いお医者さんだったのだ。
でも、この海水浴、最初のうちには人気がなかったので、歌舞伎役者まで起用して宣伝をした。やがて人気がどんどん出てくるうちに、当初、岩場で行っていた医療行為から、だんだん波が静かな浅瀬で遊ぶ人が増えて、今のような娯楽に変わってしまったそうな……。
照ヶ崎海岸はアオバトの「水飲み場」として県の天然記念物にも
謝恩碑の脇から堤防に上がると、今でも残っている岩場が見える。夏場などは親子連れに人気の場所だ。
この岩場は照ヶ崎岩礁といって、アオバトの集団飛来地として県の天然記念物になっている。アオバトはふだん山の中にいるが、ときおり集団でこの岩礁にやって来て、海水を飲むんだ。木の実などでは補えないナトリウムを摂取しているという。
5月から10月くらいまで見ることができるが、ピークは7~8月。日の出から10時頃までと夕方によく現れる。でも、やっぱりチャンスが多いのは早朝だ。けっこうみんな見に来ているぞ。
とは言うものの、「早起きなんてムリ」という人も多いはず。そんな人は町役場に行こう。玄関入ってすぐ右側に、アオバトの剥製が展示されている。動かないけど、本物はこんな間近でみることできないし、贅沢は言わないでね。
さて、港を挟んで東側は海水浴場。シーズンになると10軒以上の海の家が軒を並べ、10万人ほどが訪れる。7月31日(土)には港の駐車場で「なぎさの祭典」を開催。今年は人気アーティストのEPOと白井貴子がメインゲスト。8時半ぐらいからは花火大会も……。
そういえば今年の4月に漁港直営の「めしや 大磯港」が港内にオープン。せっかく行ったのに、あいにくの定休日だった……ガクッ!
駅前にある地場屋「ほっこり」で、こんなものを見つけました。
大磯産のサツマイモ「紅あずま」を原料に使用したアルコール度数25度の焼酎です。醸造は、長野県飯田市の喜久水酒造。地場屋「ほっこり」が製造を依頼し、商品化しています。 「お味はキリッとすっきり」とポップに書いてありましたが、水割りにして口に含むと芋の甘みがほのかに漂います。
密航中にジョーと呼ばれたから「襄」になった。新島襄終焉の地
照ヶ崎海岸入口から二宮寄りのところ、国道1号線沿い(下り車線)に「新島襄終焉の地碑」がある。新島襄はご存じの通り、同志社大学の創立者。正確には同志社大学の前身である同志社英学校を開設した人だけど、まあ、事実上の創立者である。
1889(明治22)年11月、病に倒れた彼は、静養のために大磯にある百足屋 (むかでや)旅館に来た。百足屋の別館で静養していたが、年が明けた明治23年1月に46歳11ヵ月にて永眠。大磯にはわずかの滞在だったが、ここが最期の地となってしまったのだ。
彼を偲び、1940(昭和15)年、百足屋の敷地だったこの場所に碑が立てられた。
ちなみに、本名は七五三太(しめた)という。姉が4人おり、やっと5人目で男子が誕生したので、祖父が思わず「しめた」と言ったことから、この名になったとか……。
二十歳(はたち)過ぎた彼は、日本が鎖国中にも関わらず、函館より米船ベルリン丸に乗り、上海を経てアメリカ合衆国に密航。そのとき「ジョー」と呼ばれたことから帰国後「襄」あるいは「譲」と名乗るようになった。
でも、なんで「しめた」がジョーになったかというと、じつのところよくわからない。でもジョーって言うのは、英語圏ではよくある名前、日本で言えば「太郎」みたいなものだ。それで親しみを込めてジョーって呼んだらしい。
大磯の名勝「鴫立庵」。入口脇にある「穴あきケヤキ」も名木だ
「新島襄終焉の地碑」の先には、大磯の老舗である真壁豆腐店や井上蒲鉾店がある。真壁豆腐店は明治39年創業、この店の木綿豆腐を吉田茂が好んだのは有名な話。
また井上蒲鉾店は明治11年創業。他の町からわざわざ買い物に来る人も多く、行列のできる店としても知られている。名物のさつまあげは午後2時頃には売り切れてしまうので、お早めに。
そして、その先にあるのが日本三大俳諧道場の一つとされる「鴫立庵」。小さな所だが、町自体が小さな大磯では観光史跡の目玉となっている。鴫立庵という名称は、西行が
「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」
と詠んだことに始まる。西行は平安時代末期から鎌倉時代初頭の人で、この辺りに来たときにこの句を詠んだらしい。みなさん、知ってますよね、教科書にも載るくらい有名な句ですから。
意味は〈世俗の情を絶った出家した自分であっても、しみじみとした情緒を感じます。この鴫の飛び立つ沢辺の秋のタ暮れには〉ということだ。でも意味なんかよくわからなくても、「こころなき」とか「あはれ」とか、「秋」「夕暮れ」とくれば雰囲気は十分伝わってきますよね。
その後、江戸時代初期に小田原の崇雪(そうせつ)という人物が、この歌にちなみ、この場所に「鴫立沢」という標石を立てた。
その標石の裏側に、「著盡湘南清絶地」と刻まれていて、湘南という言葉が使われている。これが湘南の始まりということで、鴫立庵脇、国道一号線沿い「とんかつ はやし亭」の前に「湘南発祥の地碑」が立てられている。
ちなみに「著盡湘南清絶地」は「ああ、しょうなんせいぜつち」と読む。“清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所”という意味だそうだ。
鴫立庵は入庵料100円、中には数々の句碑が立てられ、西行法師や虎御前の像が安置されている。まあ、100円だから気軽に入れるけど、まずその前にぜひ見ておきたいのは、入口を入る前、鴫立沢の脇にどーんと立っている大ケヤキだ。樹齢300~400年、幹が割けてぽっかりと空洞になっている。こんな状態で大丈夫なのか?
鴫立庵の受付の人に尋ねたところ、定期的に樹医に看てもらっているが、樹勢も衰えていないので「大丈夫だろう」ということだ。松で有名な大磯だが、このケヤキも名木の一つであることは間違いない。
鴫立庵とお隣の食事処は、お互いにいい感じ
ところで大磯は、町の景観保全に力を入れている。昨年4月には「景観条例」が施行され、町内あらゆる場所で、これから建てられる建築物は地区により外壁、屋根の色や形、外構などに制限がかけられたり、「できるだけ、こんなふうにしねて」という方向性が示されたりしている。
これから歩く海沿いの別荘地帯はその規制が最も厳しい場所の一つで、景観形成重点地区に指定されている。
なぜ、こんなことを言い出したかというと、いま紹介した鴫立庵もその隣に建つ「とんかつ はやし亭」も景観形成重点地区にあるいうことだ。史跡である鴫立庵はともかくとして、店舗である「はやし亭」すでに13年前から営業をしているので、現在の建物は今回の景観条例の対象にはなっていない。
にも関わらず、壁は地味でそこにかかる看板も小さい。そのおかげもあり、歴史ある鴫立庵はしっとりと落ち着いた雰囲気が保たれている。
もし、はやし亭さんが、もっと色鮮やかな外壁にし、看板も堂々とした大きなものを出していたなら、あの一画はもっとケバケバしいものになっていただろう。
大磯では看板に関する町独自の決まりはなく、県の屋外広告条例に従うことになっているのだが、それよると、もっともっと大きな看板をかけることができる。1号線に面した店舗なのだから、もっとでかい看板をかけ、もっと目立った建物にもできたはずなのに、控えめで、周囲と調和している。
しかしながら、壁面にかけたあの看板は、あの大きさ、あの色遣いにも関わらず、意外と目を引く。品がいいのに、建物の質感、色合いとあいまって、けっこう目立つのである。これは、ひとえにオーナーのセンスなのだと、思う。
ちなみに、はやし亭にはテラス席がある。そこに座ると鴫立庵は目の前。鴫立庵の樹木の枝がお店のテラスにかかるほどだ。鴫立庵を眺めながら食事ができるというか、まるで鴫立庵の庭先で食事をしているような気分になる。
これはちょっとした贅沢である。1号線沿いの店なのに、車の往来を感じさせない雰囲気もいい。
そして鴫立庵にとっても、この場所が「はやし亭」でよかったのだと思う。鴫立庵の中から「はやし亭」を見たところ、庵の樹木と店のテラスや壁面がうまく溶け合い、洋風の建物でありながら、ほとんど違和感がない。もしこれがちょいと色遣いの派手な民家であり、バルコニーあたりで洗濯物がひらひらしていたら気分も台無しである。
はやし亭と鴫立庵、なんかとってもいい関係である。
大磯町役場も元は山内家の別邸だった
鴫立庵からそのまま二宮寄りちょいと進むと、大磯町役場である。
駐車場の傍にはあちこちに松の木があり、いかにも海辺の役所という感じ。町役場の駐車場としたらなかなか情緒がある。
それもそのはず、この場所は山内豊景(とよかげ)の別邸があった場所だ。山内豊景というのは土佐山内家17代目当主である。その2代前は現在NHKで放映中の大河ドラマ「龍馬伝」にも登場している土佐藩主・山内容堂である。豊景を知らなくても、このドラマのおかげで山内容堂を知っている人は多いだろう。龍馬の故郷、土佐藩の15代目藩主である山内容堂はドラマの進行上、重要なファクターを担っている人物だ。近藤正臣さん扮する容堂は、アクの強い小にくらしい男、そのうえ、ようとして手の内を明かさぬような存在感のある人物となっている。
話は豊景に戻るが、彼は明治8年生まれ、陸軍少佐で退役し、貴族院議員となった。明治中期にこの場所に居住し、昭和32年に没した後、1971(昭和46)年、大磯町役場となっている。
土日でも役所は開いているので、もし町歩きなどに来たらぜひ寄ってほしい。入口脇にいろいろな観光パンフも置いてあるし、自販機やトイレもあるので休憩所としても利用できる。前回も書いたけど、アオバトの剥製もある。
ちなみに、土日など役所が休みの時には駐車場が有料となり、自家用車1回300円(夕方5時まで)となる。最近はやり出した電気自動車で来たなら、無料で充電もできる。もし、充電するときには、受付に一言いって。休日だったら駐車場入口にいる警備の人に、「充電させてね」と言えば、充電中は駐車料金がかからない。親切ではありませんかそして、この役所からおおよそ直線距離にしておよそ150メートル、大磯中学校までが、もっと古き良き大磯を思わせる別邸の小径が続いている。現在、別邸の大部分がマンションになったり、企業の研修所になったりしているが、小径だけはその面影を色濃く残している。
はやし亭に、雲水が来た。
私が食事をしていたときに偶然、托鉢の雲水が来た。店の人の話では年に1回程度来るらしい。私もほんとうに久々、何十年ぶりかに見ました。 修行僧である彼らはお店や会社、民家などを訪ね歩き、お布施をいただく。修行といえ、大変ですね。
海辺の敷地、別邸跡には低層階のマンションが……
町役場から西(二宮方向)に進むが、交通量の多い国道1号線ではなく、海よりのひっそりとした小径を行くことにする。
町役場の庁舎部分、そのちょうど西隣にある低層階の建物が、マンションの「レゾン・デ・パン大磯」である。
第一種低層居住専用地域にあるため高さが低く、全体的に地味である。大げさに言うなら、どこにあるのかわからない、という感じだ。
ということは、素人目に見ても周囲の景観によく溶け込んでいることになる。でも、よくよく見てみるとエントランス付近やそれに連なる外観部はどっしりとした石積みが施され、重厚感もある。小ぢんまりとして、私好みの建物である。
もともとこの一帯はずっと西側まで尾張徳川邸の敷地だったが、明治中期になると村田銃の発明者・村田経芳(つねよし)が、この辺りに邸を構えている。
村田経芳って人物、あなたはご存じだろうか? 私もまったく知らなかった。そこで調べてみると、国産銃器の開発に関して先駆的な役割を果たした人物であった。もともと薩摩藩士で、藩内随一の射撃の名手。明治4年には陸軍歩兵大尉、1875(明治8)年にはヨーロッパに派遣され、射撃技術や兵器の研究をし、帰国後の1880(明治13)年には十三年式村田銃という国産初の小銃を開発した。日本軍がそれを採用、歩兵銃に菊の御紋が刻印されたのもこの銃が始まりだった、ということだ。
彼がこの地に住んだのは明治中期、その後は日産コンツェルン、日立製作所などを築いた久原房之助(くはらふさのすけ)が買収。2001年(平成13)年には、現在のマンション「レゾン・デ・パン大磯」になっている。
昔からの緑を守っているマンション「レゾン・デ・パン大磯」
ところでこの「レゾン・デ・パン大磯」というマンションは、町と緑化協定を結んでいる。まあ、なんというか、町とそこに住む入居者が協力して、緑を守っていきましょう……というような取り決めである。
別邸時代より受け継がれてきた樹木を守るために、コの字型の建物の中央に中庭が設けられ、年代物の松や大樹が今も大切に保存されている。もちろん保存というからには、単に樹木を残しただけはない。現在も大切に維持管理されているということである。
ちなみに、このマンションでは松の木基金が設けられ、植栽管理費なるものが集められている。さらに緑化委員会なるものもある。この緑化委員会の下、集められた管理費などが松食い虫の駆除や剪定に回され、敷地内の樹木を管理しているのである。
これらのことは、たまたまお会いした入居者のご婦人にお聞きしたもので、その方、曰く「中庭だけでなく、南側にも松の木がたくさんあるので、樹木の管理費もけっこうかかります」とのこと。でも大磯に住むことを選んだ以上、「皆さん、そのあたりは協力的ですよ」とも…。ご婦人も言っていたが、大磯の良さは、古くからの松や樹木が醸し出すその情感であり、新しくそこの住民になることは、それらを受け継いでいく担い手になることを意味している。ここに住む皆さんは、そのことをよく理解しているんだと思った。
別邸時代の大磯を語る情緒ある小径
マンション「レゾン・デ・パン」の隣は、「翠渓荘」である。中はよく見えないが、雰囲気からして、なにやら由緒ありそうな佇まいである。偶然、ここを目にする人は、「ここって何?」と思うような場所だ。
この「翠渓荘」、現在は某大手工作機械メーカーが所有する接待用の料亭であるが、以前は林董(はやしただす)の別邸があった。
林董とは、以前何度か紹介した松本順の弟である。松本順は大磯に日本初の海水浴場を開き、大磯を一躍有名にした、いわば町の大恩人。その弟が林董だ。
林は明治期の外交官・政治家で、日英同盟の立役者として知られている。その彼が若干22歳の時、二等書記官として岩倉使節団に随行しイギリスのブライトン臨海保養所やロスのロングビーチの保養地を見てきた。そのときの情報が、兄・松本順の海水浴場開設を推進したと思われる。
林董の「翠渓荘」から小径が突き当たる大磯中学校脇の道路までは、昔の別荘地・大磯の面影を今も色濃く残している。100メートル余りの距離ではあるが、風雪に耐えた松の木や日差しをさえぎる屋敷林がしずしずと陰を落とし、松籟が径(みち)行く人を包むような情緒にあふれている。大磯に遊びに来たなら、ぜひ歩いてみたい道だ
海沿いには太平洋岸自転車道が…
「翠渓荘」の隣は、東京電力大磯クラブ(保養所)である。ここで、この風情ある小径も終わる。目の前は道路、その向こうには大磯中学校のグランドが見える。右手は?と思えば……な、な、なんと無骨なフェンスで覆われているではないか。ここもマンション建築のための敷地になっている。敷地は国道1号線に面しており、少し前までファミレスになっていた場所である。
H22年9月5日現在、まだ更地のままだが、掲示された説明板によると、工事着手予定は今年の9月、工事完了予定は来年の8月である。ここには地上5階建てのマンションが建つという。
このあたりは低層階しか建てられない第一種低層居住専用地域かと思っていたが、それにしては5階建てというのは高すぎる。町の都市計画課に尋ねてみると、国道1号線から南側30メートルまでは近隣商業地域なので、高さも15メートルまでOKだとのこと。もう少し海側なら高さもぐっと制限されるが、ここはその範囲外だ。
どんなマンションが建つのか気になる。
できるなら完成予想図も見てみたい。
記されていた連絡先に電話をしてみたが、現段階では完成予想図というような具体的なものはできていないと言う。それが出来るのは販売を開始する頃だということだ。残念!
400年の歴史をもつ国道1号線の松並木
国道1号線に出たので、そのまま西(二宮方向)へ進む。目の前は大磯中学校であるが、そこからは、あの有名な松並木が250メートルほど続いている。
この松並木は、1600(慶長5)年、関が原の合戦に勝利をおさめた徳川家康が東海道に宿駅の制度を設け、整備したことに始まる。1604(慶長9)年には36町を1里(約3.9km)として一里塚をつくり、街道筋にはマツやエノキなどを植えている。つまり約400年の歴史を持つ松並木ということである。
お正月の恒例にもなっている大学駅伝では、この松並木を疾走するランナーが必ずといって映し出される。1号線では最も大磯らしさを感じられる場所だ。
松並木が始まるこの辺りもまた、元は高名な人の別荘地だった。今、中学校のグランドになっている場所には、明治の元勲・山県有朋が別邸「小淘庵(おゆるぎあん)」が。そのそばには外務大臣・陸奥宗光の別邸があった。
中学校を過ぎると、石壁が長々と続く屋敷がある。現在は古河電工の大磯荘となっているが、もともとその名前の通り、古川財閥の古河市兵衛が別邸を構えていた。観光案内所で手に入れたマップを見てみると、大隈重信の別邸もこのあたりだ。
大磯の海岸ではウミガメが産卵
古河電工大磯荘を過ぎると、大きなマンションが見えてくる。これが総戸数137戸の「大磯プレイス」だ。鍋島藩の屋敷跡で、旧佐賀藩主・鍋島直弘が邸を構えていた跡地に建てられた。ちなみに設計は、あの著名な建築家・宮脇 檀(みやわきまゆみ)、完成は2000(平成12)年というから宮脇は完成を見ることなくこの世を去ったことになる。
言われてみると、この大磯プレイスも1号線に面した棟は5階建てだ。敷地が広いので海の方までずっと棟が続いている。
と、ここで古河電工大磯荘と大磯プレイスの間の小路を発見、進んでみると古河電工のお庭のような物が見える。大隈重信関係の建物かも知れない。とにかく、そこを見ながら進むと西湘バイパスをくぐり、海に出た。
ここが「こゆるぎの浜」である。
皆さん、ご存じだろうか? 大磯の浜辺でウミガメが産卵していることを……。私もこのホームページを立ち上げるまで、ウミガメなんて四国とか南の島の話だと思っていた。だが違った。
毎年来るわけでもないが、去年も産卵し、今年も産卵している。上がってきても産卵せずに戻ってしまう場合もあるという。
海岸は1996(平成8)年から自動車の乗り入れが以前から禁止されており、釣り人や家族連れの憩いの場として親しまれている。そんな場所はウミガメにも親しまれるのであろうか。
西湘バイパスの灯りや騒音を尻目に、今年もウミガメがやってきた。
ウミガメが産卵する大磯の浜、こゆるぎの浜……。
波打ち際にたたずんで「来年も来いよー!」と叫びたくなった。
老木の切り株が語る東海道の松並木
こゆるぎの海で一休みし、マンション「大磯プレイス」の脇を通り再び国道1号線へ戻る。大磯プレイス前の歩道花壇には白い彼岸花も植えられ誠にきれいである。大磯プレイスの隣は伊藤博文の滄浪閣跡であるが、ふと見ると、歩道脇に大きな切り株が保存されているではないか。
立て札によると、この切り株は「平成6年の11月に松くい虫の被害にあい、枯れてしまった松の老木である。樹齢は217年、東海道の歴史を語り続けて欲しいとの気持ちから保存した」と記されていた。
大磯にとって松は大磯らしさの景観を保つ上でも重要な樹木である。町の木(高木の部)にも制定されているほどだ。松は大磯の景観的財産、町では松くい虫に腐心している
松は大磯の景観的財産、町では松くい虫に腐心している
ちなみに大磯では、この松の維持管理に平成22年度は2,965,000円(約半分は県からの補助金)の予算を計上している。この金額が多いか少ないのか私にはわからないが、町の規模からすればなかなかのものだと思う。内訳は
●樹幹注入…………1,726,000円
●伐倒………………1,119,000円
●抵抗性松購入………120,000円
樹幹注入というのは松の木に害を与える松くい虫(カミキリムシやキクイムシなど)を防除する薬剤である。この樹幹注入は4年に1回、エリア毎に行われる。
ここではっきり言っておくが、国道1号線の松並木は国の管轄なので、町ではこの1号線の松並木に関してはノータッチ。また西湘バイパス沿いの防風・防砂林などの松も県や国の管轄なので、そちらに任せている。
町で管轄しているのは旧東海道松並木や公園・神社、大磯中学校、旧吉田邸などの官地の他、エリザベスサンダースホームや大磯プリンス、それに個人のお宅など一部の民地も含まれる。
民地といえば前回紹介した役場の隣のマンション「レゾン・デ・パン大磯」なども松がたくさんあった。そこの松も一部は薬剤注入の対象になっているのだ。
民地の松であっても薬剤注入の対象になっているのだが、その対象となる松の太さに官地とは差がある。民地の場合は胸高の直径51センチ以上でないと適用されないが、官地なら直径31センチ以上が対象となっている。つまり官地にある太さ31センチ以上の松はすべて樹幹注入しているのである。
太さに差があるとはいえ、民地の松であっても自治体のお金で松くい虫対策をしてくれるのはうれしい限りだ。本当は官地並にもっと細い松でも樹幹注入してくれればいいのだが、この薬剤はけっこう高価なのである。60ミリリットルでおよそ2900円。直径が31~35センチの松ではそれが1回に4本も必要、61~65センチでは10本も注入するのである。
なるほど、けっこうお金がかかるはずだ。22年度予算では567本を注入する予定になっている。
伐倒というのは、どうしても枯れてしまった木を切り倒し処分する費用。抵抗性松購入とは伐倒した松の代わりに新たな松を植えること。その松も文字通り、松くい虫に強い松を植えている。町では今年度140本分の苗木の予算を計上している。
別邸ではなく本邸だった滄浪閣、伊藤博文は大磯の住人
さて、マンション「大磯プレイス」の隣は、滄浪閣跡である。日本の総理大臣第1号である伊藤博文がこの場所に居を構えたのは1896(明治29)年、当初は別邸であったが、翌年、東京都品川からここに本籍を移したことから本邸となった。
もともとこの滄浪閣、小田原にあったのだが、小田原に行く途中に大磯に立ち寄った伊藤博文が白砂青松のこの地を気に入り、奥様(梅子)の病気療養のためにと、この地に別荘を建てたのだ。
本籍を大磯に移すにあたり、博文公が直々に町役場を訪れ、町長に「自分も今度ここの町民になった。大磯のために尽くすつもりだ。町のためになることはなんでも遠慮なく申し出るがよい」と言ったという。
敷地は5500坪ほどあったが、建物は他の別邸と比べるとかなり質素だったということだ。
鳥打ち帽に着物という簡単な服装でよく散歩に出かけては、農家で米麦の値段や野菜のでき具合を聞いたり、夜の海岸へ出かけ地引き網を見物し、漁夫に話しかけたという。
また博文公が大磯小学校に入学する児童に一人10銭を預け入れた郵便貯金通帳を入学祝いにくれたのは有名な話。彼が亡くなってからも西園寺公望やその他の篤志家が遺徳を引き継いだ。ちなみに当時、米1升の値段が13銭くらいだった。
博文公の死後、梅子夫人が住んだが、その後、持ち主がいくつか代わり、1951(昭和26)年には西武鉄道に売却、昭和29年には大磯プリンスの別館となった。
近年は結婚式場・中華料理店として営業していたが、西武グループの事業整理により2007(平成19)年に売却。町でも購入を試みたが予算的に折り合いが付かず、結局、現在は介護事業業者の土地となっている。
今も残る別邸の南側には松林の小径が
路地を挟んで隣が西園寺公望・旧池田成彬邸である。
1号線からだと何も見えないので、海に向かう路地に少し入ってみると洋風の邸宅が門扉越しに顔を出す。
これが池田成彬(しげあき)邸である。
もともと、この場所は伊藤博文の後を受けて総裁となった西園寺公望が別邸を構えた場所だ。博文が大磯に居を構えた3年後の1899(明治32)年、「隣荘」と称した別邸を公望が建てのだ。
公望が去った後、ここにやって来たのが池田成彬である。大正6年頃のことだという。池田成彬は三井銀行の大番頭とした活躍し、後に日本銀行総裁になった人物だ。
彼が西園寺邸跡に洋館を建てたのが昭和7~8年ごろのこと。それが現在も残っているのである。
門扉は大きく建物の上方しか見えないが、当時としたら洋風建築の粋を結集した建物かも知れない。
ここまで来たついでに、そのまま門扉に続く塀に沿って、路地を海に向かう。10月初旬であるが、この時期、足下には松葉が敷きつめられたように落ちている。今でも落ち葉がけっこう目に付くが、冬ともなれば広葉樹の落ち葉で地面が見えなくなるほどになる。
路地の突き当たり、右に曲がると「大磯こゆるぎ緑地」である。説明板によると県が行っている緑化協力金制度による第1号緑地だということだ。
小径が70メートルほど続いているので、歩いてみると砂地の上に黒松の林の中にトベラやハマヒサカキなどの海浜性植物が植えられ、松並木越しに海が広がっている。小径の右手は池田成彬邸の敷地であるが、敷地内は鬱蒼として建物も見えない。
「歴史ある大磯らしさ…」を開発コンセプトにした分譲地「松陰」
「大磯こゆるぎ緑地」を抜けると突き当たる。左手に行けば西湘バイパス下をくぐり海に出る。右手にちょいと行き、一番海沿いの路を二宮方面に進む。
このあたり閑静な住宅地で、ところどころ洒落た家が目につく。直線の路を200メートルほど進むと、突如風景が一変。
まず路面がコンクリートから石畳に変わる。そして電柱もない。しかも建っている家自体がとっても高級そうだ。比較的オープンな庭には花や樹木が植えられ、車庫には外国車が目立つ。中には暖炉のある家があるらしく、薪が積まれ煙突が見える。日本の家で暖炉ですよ。あえて薪ですよ。かなりの高級住宅地である。
この分譲地は以前、清水組(現・清水建設)4代目・清水満之助の別荘跡地だった。そこを三菱商事が購入し、設計施行はもちろん清水建設、さらに街並みをデザインするスタジオランドジャパンという会社が加わり共同開発された。
区画数40。分譲地は「松陰」と名付けられ、2003(平成15)年、販売が開始された。「歴史のある大磯らしい住環境を将来にわたって維持したい」というコンセプトのもと、町との協議で「地区計画」や「緑地協定」が策定されている。
そのお陰で、家の周りは塀やフェンスを設置せずに植栽で整備する旨や、各家に1本以上の高木によるシンボルツリーなどを植えることが求められている。
そんな訳で、この一帯はとても美しい。でもとても高そう。
後からわかったことだが、1号線からの入口には「松陰」という自然石を利用した標石がどーんと鎮座していた。
八坂神社の裏から海へ向かう隠れた小径
「松陰」の隣が今回の散歩道のゴール地点、八坂神社である。海が近いので境内はけっこう砂が目立つ。水盤舎(参拝者が身を清めるために手水を使う所)のあたりは完全な砂地になっている。
お参りしようとして社に行くと、その脇に私好みの細ーい路地が海方向へと続いているではないか。今まで歩いた中でもダントツに細い。あまり手が入っていないらしく、路地の脇に植えられた植物で覆われてしまいそうだ。
ちなみに進んでみると、先ほどの分譲地「松陰」と隣の宅地の間を通り、海辺までまっすぐ伸びている。
途中、見れば松陰のクルドサック(車がくるりと回れるようになっている場所)とつながっているのに気がついた。
私がこの細道のから戻ってくる時、ちょうど散歩する方にお会いした。この方も松陰に住んでいるという。
別邸時代からの通路かもしれないので、ぜひ残して欲しい。
松本順や福田恒存の墓がある妙大寺
大磯駅より線路沿いを150メートルほど西に進むとJRのガードをくぐる十字路にぶつかる。十字路の正面は大磯小学校だ。今までの散策は線路より南側だったので、今回はガードをくぐり、線路の北側、東小磯・西小磯あたりをぷらりと歩いてみる。 ガードをくぐり、道なりに進むとすぐに日蓮宗の「妙大寺」がある。
この寺には大磯に海水浴場を開いた町の大恩人・松本順の墓がある。
この寺の西隣(御嶽神社付近まで)は、かつて町が彼のために寄贈した土地であり、そこに別邸を構えていた。松本順は1907(明治 40)年、3月12日、この別邸で亡くなった。満74歳だった。この「妙大寺」で葬儀が行われ、当初は鴫立庵に埋葬されたが1954(昭和29)年に妙大寺に改葬したという。
鴫立庵にある墓石同様、妙大寺の墓にも、やや扁平な球体の墓石が使われており、漢字一字で「守」と記されている。
墓石というイメージよりは、記念碑という感じである。墓碑に「守」という文字を記すのも凡人とはやはり違う。有名な人物だったにもかかわらず、自分の名前をことさら刻むことも希望せず、人々の健康を守り、家族を守り、国を守る、という意味の「守」を選んだことは、進取的な思想を持っていた人物の証であろう。暖かみのある丸い石は「守」のイメージにぴったりで、やさしさや包み込む感じを表現しているように思われる
エルサレムの丘にその名を刻まれた樋口季一郎
また妙大寺には樋口季一郎の墓もある。
皆さん、樋口季一郎を知っていますか? 知らない? それなら日本のシンドラーといわれた杉原千畝(ちうね)なら知っていますか? 第二次世界大戦中に数千人のユダヤ人にビザを発給し、彼らの命を救った日本人外交官です。
しかし、その2年前、すでに二万人のユダヤ人を救った人物がいたのです。それが樋口季一郎です。
ちょっと長いけど、説明しますね。
1938(昭和13)年3月のこと、2万人近くのユダヤ人がナチスの迫害から逃れるため、ソ連~満州国の国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅まで避難していた。しかし、ここから先は満州国、入国許可が降りず足止めをくらっていた。着の身着のまま、食料もなく困り果てていた。
当時、日本はドイツと友好関係にあったが、それにも拘わらず、ハルピン特務機関長であった樋口は「これは人道問題だ!」と、独断専行でユダヤ人救済を決意。部下と共に食料や衣類、燃料を配給し、さらに膠着状態にあった出国斡旋や、満州国内への入植斡旋等を行った。
戦後、ソ連は樋口を戦犯に指名したが、 NYに本部を置く世界ユダヤ人協会が「オトポールの恩を返すのは今」と樋口救助運動を広め、ソ連側への引渡しは拒否された。
イスラエル建国の際、ユダヤ民族のために貢献した人々の名を刻んだ「黄金の碑」(ゴールデンブック)がエルサレムの丘に建立されたが、その碑の4番目に樋口季一郎の名が「偉大なる人道主義者 ゼネラル樋口」と刻まれている。
その碑に最初に刻まれているのがモーゼ、その次がメンデルスゾーン、3番目がアインシュタイン、そして樋口。錚々たるメンバーの中の4番目、何人が記されているかわかりませんが、これは凄いことじゃないですか。
こんな人が大磯に住んでいたんですね。
怖い言い伝えがある御岳神社
妙大寺の西隣には先ほども言ったが、松本順の邸宅があった。
松本順亡き後、そこに住んだのが日英同盟の外交に尽力した加藤高明である。後に首相となる加藤がここに住んだのは1902(明治35)年頃、庭に英国から取り寄せたバラの苗でみごとなバラ園を造ったという。
また庭内にはミカン園もあり、毎年2月21日の紀元節にはたくさんのミカンを大磯小学校へ寄贈したという。
加藤邸跡を過ぎると右手に御嶽神社がある。
参道に大イチョウがあるが、このイチョウの木、恐ろしい言い伝えがある。昔々の話だが、草木も眠る丑(うし)三つ時に白装束(しろしょうぞく)姿でこの木の所に行き、手にした人形を幹に押しつけや、呪いの言葉をつぶやきながら五寸釘を打ち付けるというものだ。ご存じ、平安時代から伝わる「呪いのワラ人形」である。
本当だったんでしょうか。夜は怖くて近寄れません。
さて、今、私が歩いているこの道は鎌倉古道(山道)の一つであり、明治期には別邸も多くあった。
御嶽神社を過ぎたあたりには薩摩出身の実業家、赤星弥之助の別邸があった。古美術収集家でも知られた彼は、1904(明治37)年頃、1万坪の敷地にショサイヤ・コンドル設計による赤星御殿といわれた洋館を建てた。残念なことに、今その面影は感じられない。
なお平塚市美術館には黒田清輝が描いた『赤星弥之助像』が所蔵されている。(現在、展示はされていない)
エクレール大磯の脇の小径はしっとりとした情緒が……
さらに少し進むと、山側に上る道があるが、その角地あたりに三井養之助の別邸があった。三井銀行と同時に開業した三井物産の初代社主で、渋沢栄一らと東京株式取引所を設立した人物である。1900(明治33)年に別邸を構えているが、今は跡形もない。だが、このあたりには往時の雰囲気が残っており、言われてみると「あっ、なるほどね」というような情緒が感じられる。
道は山側に続いていくが、今回はそちらに向かわず、マンション「エクレール大磯」入口脇にある電話ボックス横の小径をたどることにする。電話ボックス脇には「明治のみち」コースの案内標識にも立っており、散策の推奨コースにもなっていることがわかる。
この小径も私の気に入っている道の一つで、脇には水路が流れており、あたりの樹木で昼間でもしっとりとしており、とても閑静である。水路沿いの樹木越しにはマンション「エクレール大磯」の建物が垣間見える。
「エクレール大磯」は1985年建築、総世帯27戸のこぢんまりとしたマンションだが、敷地は広く3階建て6棟が林の中にひっそりと佇んでいる。
じつに落ち着いた雰囲気であるのだが、写真で紹介することはできない。今までいくつかのマンションの外観を無許可で撮影してしまったが、こちらのマンションは外からでは撮影できず、管理人にお願いしたが撮影許可が下りなかった。
突如、現れる稲荷の森にはびっくり
絵本に出てきそうなこの小径をほんの20~30メートルほど進むと、左手(南側)に入る道がある。入ってみると、突如、鬱蒼とした森が現れる。よく見ると、社が建っており、それが「一本松稲荷」であることがわかる。
まさか、こんな場所に昼間も暗き社の森があるとは思わず、最初に訪ねたときにはかなりインパクトがあった。
昔は大きな一本松があったそうだが、今はない。その代わり、樹齢300年を超えるタブの木がある。とにかく社の周りは樹木が生い茂り、古色蒼然とした雰囲気に彩られている。
現在の稲荷は、すぐ西隣に住んでいた日本画家の安田靫彦(やすだ ゆきひこ)が設計したものだそうだ。安田靫彦といえば焼損した法隆寺金堂壁画の模写にも携わった歴史画の大家である。
彼が大磯に住んでいたとは知らなかった。
調べてみると、大磯には政治家や軍人、実業家以外にも、島崎藤村はもとより獅子文六や中村吉右衛門、尾上菊五郎、佐々木信綱、福田恒存、加山又造、山本丘人など多くの文化人が住んでいた。
今でも加山又造の長男である陶芸家の加山哲也は大磯で作陶しているし、画家の堀文子も大磯に住み精力的に制作活動をしている。ベストセラー作家の村上春樹の住まいもあるが、本人が海外に住んでいるのでほとんどこちらにはいないらしい。
いずれにしろ、大磯には今でも多くの文化人が住んでいる。
さて、元の小径に戻り、先を急ぐことにしよう。
白洲正子も新婚時代を過ごした大磯
一本松稲荷から再び、マンション「エクレール大磯」南側の小径に戻り、西へ進む。
なにやら風情あるお屋敷が何軒か続いた後、小径は突き当たり道幅を広げながら右へ折れ曲がって北へ進む。
この折れ曲がったあたりには、かつて樺山資紀(すけのり)の別邸があった。
樺山資紀と聞いても「誰っ?」て思う人も多いだろう。薩摩藩出身で文部大臣、海軍大将などを務めた明治の人である。白洲正子の祖父と言ったら、おわかりになる方も多いだろう。
正子が白洲次郎と結婚した当初は、ここで過ごしたという。
ここに住む以前、すでに明治23年頃には、樺山資紀は鴫立庵のすぐ近く、今のライオンズマンションのあたりに別邸を構えていた。大きな松が2本あったので二本松庵と名付けたという。
ちなみに国道1号線にある照ヶ崎海水浴場入口の碑も彼の揮毫である。
8人もの歴代総理大臣が別邸を構えた町
現在、樺山資紀邸跡の一画に住んでいたのが、写真家の濱谷浩である。1999年に亡くなられてしまったが、今も邸は残されている。
濱谷浩邸の前を進むと、ほぼ突き当たったような形になり、道は左に折れ曲がる。道なりに少し進むと、なにやら大きな塀が続いているがお宅がある。
ここが大正5年、第18代内閣総理大臣を務めた寺内正毅(まさたけ)邸である。塀が高いのと敷地内の樹木が多いため、建物はほとんど見えないが、現在もその血縁の方がお住まいになっているという。
首相別邸と言えば、前回の散策コース『照ヶ崎海岸入口から八坂神社まで……』で紹介したように、国道1号線の南側にもいくつもの邸宅があった。松並木のあたりは元勲通りなどと呼ばれていたほどである。
大磯に住んだ首相を数えてみると、伊藤博文、山形有朋、大隈重信、陸奥宗光、西園寺公望、それに前編で紹介した加藤高明、また明治29年には南下町には原敬が、さらに城山公園の南側には吉田茂邸があった。というわけで大磯には8人の首相が邸を構えていたのである。
東西7.6キロ、南北4キロのたらずの小さな町に歴代の首相が8人というのは驚きである。別邸最盛期の明治後期には、「大磯は東京の飛び地」とまで言われ、「大磯で閣議が開ける」と喧伝されたのである。
彼ら首相を含め政財界の大物が多数居を構えたことが現代の大磯の雰囲気を形づくっている。
たとえば国道1号線の松並木は東海道の両側に残っている。と言っても道路拡張の折り、上り車線を造ったことで、松並木の片側は道路の中央、センター分離帯に立つことになった。
言いかえるなら、江戸時代の東海道は下り車線ほどの広さしかなかったということだ。
このあたりの上り車線ができたのは昭和12~13年頃だと思われている。日中戦争に突入する前後であり、物資輸送強化のための道路整備だったらしい。先ほども言ったが、上り車線ができたことにより道路の中央に立つことになった松並木は、道路整備を進める上には邪魔な存在でもある。
たぶん、そのような理由により当時、各地で松並木が伐採されたであろう。しかし、大磯のこのあたりでは残った。
なぜか? それはこのへんが元勲通りと呼ばれるほど、政界の大物が軒を並べていたからではないかと考えられる。彼らに配慮して松並木は残されたらしい。
そんなこんなで、大磯はいまだに往時の面影が残されている。
時代の流れだろうか。広いお屋敷もやがては分譲地やマンションに。
寺内邸を右に見ながら70メートルも進むと、突然大きな分譲地が目に入る。代官山の麓にできた、まだ区画整理を終えたばかりの分譲地だ。掲示されているポスターや説明板によると開発面積はおよそ3000平米、14区画の整地が行われ、そのいずれもが45坪以上である。駅より徒歩14分で2280万円~だという。
以前は大きなお宅があった場所なのだが、諸事情により分譲地となったという。
ご近所の人の話では、土地のオーナーさんが、宅地となったこの分譲地の道沿いに家を建て直し、住むという。目の前の道が歴史ある鎌倉古道であるという点に加え、大磯の雰囲気を大事にしたいということで、それなりの建物や外構をあつらえるということだ。
大きな邸宅がなくなってしまうのは残念であるが、せめてその跡地には、大磯らしさを大切にした家を建てて欲しい。
町民の協力で開催する「フラワーフェスタ」
話は突然変わるが、毎年4月と5月の数日間、大磯町商工会の協力で「フラワーフェスタ」というイベントが開催されている。これは、お花や植物好きの個人がお手入れした庭を観賞してもらうためのイベントで、60軒余りのお宅がこの企画に参加しており、「オープンガーデン」とも言われている。
この企画に参加しているお宅が多い地域は、石神台や前々回に紹介した八坂神社近くの松陰、それにこの分譲地南側(西小磯769番地付近)などである。
私も今年の5月にここに来て、写真を撮らせてもらった。
お話をさせていただいたTさんのお宅は、大きな庭ではないが、家の周りにお花や樹木がきれいに植えられており、それが生け垣のような雰囲気をつくりだしている。
家を建てたとき、ブロック塀も考えたというが、それでは家にいる自分たちが閉じこめられてしまうような気がして、家の周りに樹木を植えたという。
「部屋の中から外を見ると、ちょっとした森の中にいるようですよ」と奥様がおっしゃっていたのが印象的だった。
町も景観を守るために「いけがき」や「シンボルツリー」に助成金が……
大磯を歩いてみて感じるのは、小さな道ほど味があるということだ。とくに情緒ある竹垣や手入れされた生け垣が続く道は、歩いていても住民の息づかいが感じられるようで気持ちがいい。
別邸跡地が開発され失われていくのは寂しいが、生け垣や竹垣などのお宅は大磯らしさを残す、大きなポイントとなっている。
そういえば大磯町では、『いけがき奨励制度』や『シンボルツリー奨励制度』というのがある。
簡単に言ってしまうと『いけがき奨励制度』の方は、家の周りに5メートル以上の生け垣を作りたいと思った場合、1メートルにつき2000円、最大4万円までの補助金が支給される。
『シンボルツリー奨励制度』の方は「庭にちょっと大きな木でも植えたいな」と思ったら、この制度が利用できる可能性が大きい。樹木の高さが3メートル以上あり、植えるための費用が2万円を越える場合、その経費の3分の1が最大2万円まで支給される。
もし、その家が景観形成重点地区なら『いけがき』の方は、1メートルにつき2500円。『シンボルツリー』では支給対象が経費の2分の1までとなる。その他細かな条件はいくつかあるが、基本的にはこんなところだ。
いま、景観形成重点地区って言葉を使ったが、「照ヶ崎入口から八坂神社まで……(前編)」のところでも触れたように、景観形成重点地区とは「大磯らしい景観」を守るために、景観条例により建物の外観や屋根の色・形、外構などにさまざまな規制がかけられている地域である。大磯町は全町域で景観保全についての方向性が示されているが、とくにこの重点地域は「大磯らしい景観を積極的に推進していくぞ」という意気込みを示した場所だ。
現在紹介している小磯地区の山手や、駅周辺、以前紹介した海辺の別荘地帯、化粧坂の松並木付近、高麗山公園周辺、旧東海道中丸、六社神社周辺などがこの景観形成重点地区に指定されている。
町が景観条例をつくったり、このような重点地区を制定したのも急速に失われていく大磯らしさへの危機感だと思う。邸宅が取り壊され、その跡地が分譲地やマンションになってしまう。
町民にとっては見慣れた風景が一変すると同時に「ああ、あの建物も亡くなってしまった」という喪失感を伴うものだ。
開発という行為には常に破壊がつきまとう。ときには便利になることもあるが、歴史ある大磯という町のアイデンティティー失われていくようで、外者である私にとっても胸が痛い。
その土地が個人の所有である以上、建物を壊してしまおうが、宅地にしてしまうおうが、町としては口出しはできない。だからこそ町は都市計画や景観条例などで外堀を固め、なんとしても大磯らしさを守ろうと必死になっている。そうでもしないと、大磯の町はただの、どこにでもある顔のない地方の町になってしまう。
線路近くには風情ある小路が続く
さて、話がずいぶん飛んでしまったが、このあたりで駅の方へ戻ることにする。そのまま西へ150メートルも進めば、歩射という祭礼が行われる「白岩神社」があるが、今回はそこまで行かず、オープンガーデンを行っているこの一画から南に進み、それから駅へ向かってみる。
小磯駐在所を左手に見ながら、穏やかな住宅地を250メートルそれを駅方向に進むと、「夢の地下道」入口がある。これは線路の下をくぐり国道1号線方面へ抜ける道で車両は通れないが、人や自転車は通行できる地下道だ。
この地下道横に東鉄工業の平塚出張所があり、その脇を線路に沿って小路が続いている。このあたりの人にとって、この路は自転車や徒歩で駅に向かうには最短のルートであり、地元民の利用も多い。
私も好きな道なのでここを進み、駅へ戻ることにする。
私も何回かこのルートを通ったが、夕方になってしまったこともある。振り返ると、線路の上が夕焼けに染まり、その中を湘南電車が走ってくる。
生け垣の小路から見るこんな風景に感傷的になってしまうのは私だけではないだろう……。
駅前にも、ついにマンションが…。
大磯駅の改札を出てロータリー左手を見てみると、「Oiso Beach」と書かれた青いゲートが目に入る。その下にはイタリアンレストランの「ヴェントマリーノ」が……。初回にも登場したが、この建物は旧山口勝蔵邸であり、現存する日本最古のツーバイフォー工法で建てられている。このゲートの左側には、観光協会の案内所や交番があるが、その隣は木々が鬱蒼としており、道路沿いに石垣が続く。この鬱蒼とした場所は、少し前まで、株式会社フジソクの保養所になっていた。フジソクという会社をネットで調べてみると、川崎に本社を置く、小型スイッチなどを製造している会社であると思われる。
しかし現在は三菱商事が土地を手に入れ、5階建てのマンションを建設しようとしている。まだ着工していないので竹や木々がけっこう残っているが、工事が始まれば、いつ伐採されてもおかしくない。駅前の一等地であり、電車で初めて大磯に降り立った人が見回せば、必然的に視界に入ってしまう。大磯の第一印象を左右しかねない場所だ。
そんな場所にマンションを建設するのであるから、それなりの配慮が欲しい。単なる法的規制をクリアした建物でなく、「ああ、大磯らしいね」と言われるような建物にして欲しいものだ。
さて、この敷地には先ほど、(株)フジソクの保養所があったと記したが、その保養所には「孝徳荘」という名称が付けられていた。大正時代ここに別邸を構えた木村孝太郎は米問屋「木村徳兵衛商店」や証券所を営んでいた。別邸は和風の建物と洋館を合わせた洒落た建物だったが、現在はすでに取り壊されてしまっている。
道路拡張。やがては、この石垣も……
この「孝徳荘」があった場所から国道1号線に出るまで、しばらくの間、玉石の石垣が続いている。「孝徳荘」跡にマンションができた際には、道路拡張に伴い、この石垣が取り壊される予定だ。この坂を毎日のように歩いていた人にとっては寂しいことだが、道路拡張工事が始まるまでは、かなりの月日を要しそうなので当分の間、石垣は残るだろう。
駅前と1号線をつなぐこの坂道の道路は、わずか200数十メートルの長さである。短い割には県道である。県道大磯停車場線(県道610号)という立派な名称がついている。明治23年頃に開削工事が行われ、昭和14年に県道になっている。
当時としては十分な広さだったろうが、今となっては道幅が狭く、バスのすれ違いにも事欠く。それで道を広げることになったそうだ。
肺病のための薬を開発「鮑研究所」
マンション敷地になっている「孝徳荘」跡を少し下ると、道路の反対側に、鮑の貝殻をいくつも帯のようにはめ込んだ塀がある。遠目で見ると白いラインの塗装が所々剥げ落ちているようにも思える。しかし、間近で見れば、それが鮑であることがすぐにわかる。
なぜ、こんな鮑の貝殻を埋め込んだ塀があるのか?
それは、大正時代ここに鮑(あわび)研究所があったからだ。現代のように、鮑を養殖して売ろうとしていたわけではない。難病といわれた肺病の薬を鮑から作るための施設だった。大正時代の初期、魚道学者の白根敏郎がここに研究所を創設、肺病薬「アワビコール」を発明し販売にこぎ着けた。鮑に含まれているどのような成分が肺病に効くのか、私にはわからないが、「アワビコール」とは鮑の肉を炭火で乾燥し、粉末にしてかから炭酸ゼアコール・フェラチンなどを入れて混ぜたものだったという。
当時の広告文には……
白根敏郎先生発明 肺薬 「アワビコール」
特徴 1 医薬と併用して絶対に副作用なし。
2 極めて美味である。
3 消化力絶大なり。
4 短期療養の特徴を有す。
5 目に力を生ず。
6 元気旺盛となる。
果たして、いかなるほどの効果であったのであろうか?
入手した情報から見る限り、かなり手広くやっていたようだ。地元の天然物だけでは足りず、照ケ崎・高磯海岸に養殖場を作ったり、真鶴に委託養殖をしたりしている。また不漁の時は中国から乾燥した鮑を輸入したりすることも……。東京と名古屋、さらに台湾にも出張所があったらしいというから、肺結核の有効な治療法がなかった当時、相当な売れ行きだったに違いない。ちなみに結核の治療ができるようになったのは、1943(昭和18)年に抗生物質ストレプトマイシンが発見されてからである。
図書館の場所には、郡役所が……
鮑塀を過ぎて間なしに、道路反対側(左側)に町立図書館がある。この場所には明治から大正にかけて郡役場が置かれていた。1878(明治11)年、郡区町村編成法により淘綾(ゆるぎ)郡が編成された。今でいう大磯・二宮・平塚の一部が、その行政区画となる。その際、郡役所が置かれたのが大磯であった。1896(明治29)年3月には淘綾郡と大住(おおすみ)郡が合併し、中郡となる。大住郡とは今でいう秦野・伊勢原・平塚を合わせた地域であるから、当時の中郡は今の中郡の何倍も広かった。
現在の図書館入口左手に立派すぎるほどの掲示板があるが、その掲示板の左右に立つのが郡役所当時の門柱である。まさに往時を偲ぶ記念品である。
談話室「はまひるがお」にて大磯マップ販売
さて、国道1号線(大磯駅入口交差点)に出たら平塚方面へ進む。
60メートルも行くと大磯談話室「はまひるがお」がある。談話室と冠せられているが喫茶店である。ランチにカレーとコーヒーのセットを注文したが、コーヒーが美味しかった。600円にしてはボリュームもあり、満足度も高い。
じつはこの喫茶店、NPO法人の大磯福祉コミュニティーの運営する喫茶店なのである。障害や子育て、その他諸々の不安などを気兼ねなく相談できる場所にしたいということで、このような形になった。喫茶店にした方が、誰でも気軽に足を運べるでしょ。だから、あえて談話室と名付けている。なるほどね。
でも喫茶店です。コーヒーも本格的。
私が行ったときには店内にいくつかの絵画が掛けられていた。後で知ったのだが、あの絵は障害者の方の作品だった。また特定の日にパステル画教室やうたごえ喫茶などのイベントを開設している。
ちなみに、ハマヒルガオは大磯町の花。大磯ガイドボランティア協会の事務所にもなっている。
私もこの原稿を書くにあたり、ガイドボランティア主催の見学会に参加したり、資料をいただいたり、たいへんお世話になった。大磯駅周辺を歩き回るには大変便利な「大磯まち歩きマップ」もここで販売している。けっこう細かく出ているので、あちこち訪ね回るのが好きな人にはもってこいのマップだ。
旧東海道には、天日干しがよく似合う
国道1号線をさらに100メートルほど平塚方面へ進むと、三沢橋東側という交差点がある。
ここで国道からそれて左斜め前方へ。ここが旧東海道だ。
少し歩くと、なにやら店頭でずらりと干物を干している魚屋さんが。「魚金」(うおきん)である。この地で50年以上も営業をしているお店で、地元の人からも愛されている。このお店、ご覧のとおり店先で干物を作っている。昔ながらの天日干しである。機械干しが主流の現在において、お日様のパワーによって干物を作っているのだ。天候にも左右されやすいし、日差しの強さも大きく影響するだろう。天日干しって、けっこうやっかいなのだ。しかし、そこは長年の技。魚の状態と塩加減、さらにお日様の具合。これら微妙な塩梅(あんばい)を見ながら、旨い干物に仕上げていく。
手間がかかりそうだが、その分、旨そうだ。
旧東海道には、店先で干物を干すような、そんな魚屋さんがよく似合う。
毎年11月頃には「宿場まつり」を開催
そういえば、このあたりは11月に開催される「宿場まつり」の会場となっている。大磯宿は江戸から数えて8番目の宿場町。3つの本陣があった。 去年は花魁(おいらん)道中も復活、諸国街道名産市や外郎(ういろう)口上、大道芸などのたくさんのイベントで盛り上がった。
今年はどんな新企画が登場するのか楽しみなところである。
橋といっても、地下道である「竹縄架道橋」
国道1号線の三沢橋東側交差点から旧東海道を300メートル近く歩くと、東海道線の線路に当たる。踏切はないので自動車は通れないが、自転車や人なら、地下道を通って向こう側にでることができる。
線路の下を通る地下道は、地下を通るにもかかわらず「竹縄架道橋」という名前が付けられている。(一般的には地下道なのに橋であるというのは、おかしい気もするが、そう呼ばれるそうだ)
この架道橋ができたのは1978(昭和53)年9月25日、それ以前はこの場所に踏切があった。しかし東海道線復々線化に伴い踏切は昭和53年10月に廃止となっている。
旧東海道の松並木に彩りを添える大磯八景の句碑
地下道をくぐり平塚寄りに出て、少し行くと左手に大磯八景の碑が立っている。
大磯八景の碑とは、昭和12年に大磯小学校2代目の校長の朝倉敬之(あさくらたかゆき)が自ら詠んだ句を添えて、自費で立てたものである。
「雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫く 音はかりして」敬之
この句は「化粧坂の夜雨」と題するものだが、うら寂しく、叙情的な趣である。
大磯八景の句碑は、八景というだけあって、他にも照ヶ崎や鴫立庵入口などに、それぞれの句碑が立てられている。昔は8つあったようだが、現在では7基しか残っていない。
もともと大磯という地は、さすがに日本3大俳諧道場の一つ「鴫立庵」を有するだけあって、西行が「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」と詠んで以来、連綿と句作を愛する遺伝子のようなものが受け継がれている地なのだ。
鴫立庵の最初の庵主となった大淀三千風(おおよどみちかぜ)も18 景を選んで歌にしたと言われているし、9 代目の庵主の遠藤雉啄 (1763~1844) も磯山八景として俳句を詠んだと言われている。
明治 38(1905) 年には、5代目町長の宮代謙吉が大磯の名所八景を選んで絵葉書まで出している。その八景に句をつけたのが朝倉敬之である。
とにもかくにも大磯という町は、鴫立庵に象徴されるように「俳諧のまち」なのである。
でも、そんな句を詠むような情緒も、近年の開発によって失われつつある。残念なことだ。
江戸から16番目の一里塚の跡には説明板が残るのみ
大磯八景「化粧坂の夜雨」句碑からさらに100メートルほど平塚方面へ歩くと、やはり左手に一里塚の説明板が立っている。ここが江戸から16番目の一里塚があった場所である。塚というからには周囲より高かったのであろうが、今ではその面影もない。
ただその場所には一里塚があったという説明板が立っている。説明板には絵図が添えられていて、その絵柄には当時の一里塚の様子が描かれている。
絵柄全体としては一里塚周辺の松並木に雨が降りそぼる様であり、よく見ると右上に「虎ヶ雨」と記されているではないか。
「虎ヶ雨」とは、ご存じ安藤広重(歌川広重)の東海道五十三次の浮世絵の中で、江戸から8番目の宿場町である大磯を描いた浮世絵である。モチーフとなっているのは日本三大仇討ちの一つ曽我兄弟の話。兄の十郎の恋人だった虎女が、仇討ちに行く恋人と別れなくてはならない涙なのか(仇討ちにいくということは、すでに死を覚悟していること)、あるいは亡骸(なきがら)にすがりつく涙であろうか、いずれにしても悲しみにくれる涙を雨に重ねたものである。
広重の東海道五十三次、雨を描いた図は3カ所
東海道五十三次、全55枚(起点の日本橋と終点の三条大橋を加えると55に)の絵図の中で雨が降っている絵柄は3枚あり、その最初が大磯である。「虎ヶ雨」では、馬に乗った旅人らしき人や、傘をさした人などが松並木を行く様が描かれており、左手先には海が、そして右手にはまるっこい山が張り出している。
「この丸っこい山はどこだ?」と聞かれたら、普通は高麗山だと答えてしまうだろう。高麗山は丸っこいし、大磯の象徴でもある。誰もがそう思うのだから、この一里塚の説明板にも「虎ヶ雨」という文字が出ているのだろう。なにせ、この一里塚は高麗山の麓にあるといっていいほどだ。
しかし、別な見解もある。あの丸っこい山は駅前のエリザベスサンダースホームのある愛宕山ではないかとう人もいる。たしかに、よく見ると松並木の間に家々がずらりと並んでいる。ということは、意外に宿場の中だった可能性もある。
昔の愛宕山は現在より国道に張り出しており、その姿が似ているというのである(今は造成などの開発により、昔よりなだらかになり、その容貌もおとなしくなってしまったようだ)。
ならば、この絵が描写された場所は、化粧坂よりもっと町の中心部に近い場所だということになる。
だが、よくよく考えてみるなら広重自身が実際の景色を写実したとも限らない訳で、本当はどこなのか正解はわからない。
ちなみに東海道五十三次、残りの2枚の雨の絵は45番目の宿となっている現在の三重県鈴鹿市(庄野)の「白雨」、49番目の滋賀県甲賀市(土山)の「春の雨」である。
化粧坂を一時期は木炭バスが走っていた
さて、化粧塚の一里塚と名付けられているように、この辺りの地名を化粧坂といい、昔は「けわいざか」と読んだが、近年では「けしょうざか」と読むこともある。
化粧坂というと、県下では鎌倉の切通しが知られているが、Web上の百科事典ウィキペディアによると化粧坂という地名は全国至るところにある地名だという。化粧をするということは身だしなみを整えるという解釈ができ、「さあ、ここから今までとは違う場所に入りますよ」という境界を表すともいわれている。鎌倉の化粧坂でいえば、ここからが鎌倉の町であり、大磯でいうなら、「ここからが大磯宿ですよ」という意かもしれない。もっとも大磯では、虎女の「化粧井戸」があるので、化粧坂と言われるようになったのだろうが……。
化粧坂という地名が表すとおり、この道は坂道である。坂の始まりはこの旧東海道と国道との交差点「化粧坂交差点」から冒頭で説明した竹縄架道橋(昔は踏切)までの、だらだらした上り坂を化粧坂といった。
今歩いてみると坂と名付けられている割には大した坂ではない。しかし資料によると、この坂がジャリ道の頃は荷を積んだリヤカーが後押ししないと上がれなかったという。舗装していない坂では、荷車を引くにはかなりの苦労だったようだ。
ちなみに、このあたりに現在の国道1号線が開通したのは、1951(昭和26)年、それによって三沢橋側交差点~化粧坂交差点までの東海道は旧国道となり、昭和36年に町道になっている。国道1号線が開通するまで、箱根駅伝はこの道を通っていた。
私がカメラを持ってうろうろしているときに、たまたま近所に住むご年配の方に話を聞くことができた。
その男性によると、彼が子供の頃はまだ国道1号線も通っていなかったため、この松並木が主要道であり、この道を木炭バスが走っていたという。まだ舗装されていなかったので、馬力のない木炭バスは坂を上るのにかなり苦労していた、と話してくれた。
また4月に開催される高麗寺祭(こうらいじまち)のときに高来神社周辺で植木市が開かれるが、当時はこの化粧坂あたりまで植木市の店が出ていたと言うことだ。
松並木には虎女が化粧に使った「化粧井戸」が
東海道、江戸から16番目の一里塚を過ぎると、右手に化粧井戸(けわいいど・けしょういど)がある。
曽我の十郎の恋人であった虎女が、化粧をする際に、この井戸の水を使用したといわれている井戸である。虎女は、十郎が仇討ちを遂げるまでの2年間、および晩年を大磯の地で暮らしている。
この化粧井戸がある松並木のだらだら坂を化粧坂という。前回の中編では、化粧坂という地名は全国にあり、身を整える、という意から「境界」を表すことが多いと記した。だが、大磯の場合は、化粧井戸があったので化粧坂と名付けられたのだろう。このあたりが大磯宿への宿場入口であったのは、江戸時代のことで、鎌倉時代では、化粧井戸付近が大磯の中心だったということだ。
「旧東海道の松並木」と言うけれど、大きな松は少なくて……
化粧井戸のあたりから、改めて松並木の旧道を振り返ると、夏なら気づかないかも知れないが、落葉樹が葉を落としている季節だと、松の木の幼さが目につく。
滄浪閣跡などがある国道1号線の松並木と比べると、この旧東海道の松並木は大きな松が極めて少なく、エノキの大木が目に付いてしまう。
松くい虫の被害で、昔からの松はやられてしまい、町では新たな松を植えている。
『照ヶ崎海岸入口から八坂神社まで海沿いの別荘地帯を歩く』(後編)で書いたように、町では、この松の苗木を購入するのに、22年度は12万円の予算を計上している。
枯れた松を伐採した後には、できるだけ新たな松を植え直している。新たに植えられた松は、松くい虫などに耐性がある抵抗性の松であり、これらの松もたぶんそれであろう。
町の至る所に生えている松の木は、大磯の景観をつかさどる上でとても重要なものである。
このあたりの通りも『かながわのまちなみ100選』にも選ばれており、町のマップなどでも「旧東海道の松並木」として紹介されている。時とともに立派な松並木に育ってほしいと思う。
通り沿いの樹木が、いい情景を描き出している
この旧東海道を歩いてみて思うのは、本当にのんびりしていることだ。交通量が少ないこともあるが、道自体がいい。立派な松の木が少ないのは残念であるが、エノキの大木が多く、町の努力もあって背の低い松の木ならたくさん植えられている。
それに何より、この道にはガードレールなるものがない。道路と民家の間には、ゆったりとした松並木の緑地帯があり、それがこの旧街道の穏やかな雰囲気をかたどっている。たぶん地元の人たちの協力もあるのだろう。よく見ると、松やエノキの他にも、庭木になるような、いろいろな樹木が植えられている。
町の雰囲気や景観は一朝一夕にはつくれない。歴史や文化を踏まえ、町がいくつもの規制を打ち出し、長期視点のグランドデザインを描いたとしても、実際には、そこに住んでいる人たちの意識がものを言う。
何度も言うようだが、広大な別邸後がマンションや住宅地になってしまうのは、避けられない現実だ。開発業者の人も、大磯という町のイメージを勘案して、開発の見取り図を描いて欲しい。そして、そこに越してきた人もまた、大磯という町の雰囲気や景観をできうる限り維持・再生してほしい。
樹齢300年以上、町の史跡名勝天然記念物「ホルトノキ」
化粧井戸を過ぎると、国道1号線にぶつかる。
交差点名は昔からの呼び方である「化粧坂(けわいざか)」であり、すぐ近くの国道1号線沿いにはバス停「化粧坂」があり、こちらも読み方は「けわいざか」である。
この交差点から、国道1号線を東へ200メートルも歩けば、高来神社の入口に着くが、その前に北へ向かい、町の史跡名勝天然記念物に指定されているホルトノキ(ホルトの木)に向かうことにする。
化粧坂交差点から高麗山方面へ向かう、まっすぐな道がある。幅は4メートルほど。山に向かっているので、なだらかな上り坂になっている。
この道を200メートルちょっと行くと突き当たり、道は直角に左に折れる。この曲がり角にホルトノキはある。樹齢は推定300年以上。高さ18メートル、樹冠の広がりは20メートルに達する。
千葉県以西の暖地に生息する常緑高木であるが、県内ではこれほどの古木は珍しいという。それにしてもホルトノキとは奇妙な名称である。
それに関して、2006(平成18)年2月9日の朝日新聞朝刊の『花おりおり』というコラムに名前の由来が掲載されている。それによると、「ホルト」はポルトガルの転化だという。平賀源内は紀州の湯浅町でこの木を見て、果実が似ていたためにポルトガル由来のオリーブと誤解してしまったそうである。つまり「ポルトガルの木」が「ホルトノキ」になったというわけだ。
画家・堀文子が私財を投じて守った古木
じつは、このホルトノキのすぐ脇に画家・堀文子のアトリエがある。
なぜ、この場所に画伯のアトリエが? 偶然ではない。
そもそもの始まりは、この古木が建っていた土地を持ち主が屋敷ごと売り出したことに始まる。売り出したことにより、この古木も伐採される運命となった。樹齢300年とも500年とも言われている古木である。
すでに、この古木のすぐ上に、自宅を構えていた彼女は、なんとしても古木の伐採を回避しようとした。町や県に掛け合うこと、およそ2年間。しかし交渉の甲斐もなく伐採は中止できない。万策尽きた彼女は、ついに財産をつぎ込んでこの土地を購入し、古木を守ったのである。その際に、軽井沢にあったアトリエも、イタリアのアレッツォにあったアトリエも処分してしまったのではないかと思われる。
購入時期は彼女が80歳代の半ば、おそらく2000年頃ではないかということだ。
以上のことは、大磯ガイドボランティア協会からお聞きしたものである。いつもながら、大した情報通である。
後年、堀文子は自らの人生を振り返った回想録を書いている。タイトルは『ホルトの木の下で』。2007年、幻戯出版より出版されている。
高麗寺から高麗神社に、そして高来神社に改称
並木の参道を抜けると、高来神社がある。もともとここには高麗寺があった。「高麗」という名称が示すとおり、古代朝鮮の「高句麗」から由来しているといわれている。
江戸時代初期、この寺には徳川家康の神影である東照宮が祀られていた。そのため、参勤交代の際には、東海道を通った大名はここで参詣しなくてはならなかった。
しかし明治になると時代は変わった。それまでの徳川幕府の色合いを消したかった政府は、神仏分離令を交付し、幕府とのつながりのあった高麗寺も廃寺にしてしまったのだ。高麗寺が特定の檀家をもっていなかったのも、政府から見れば都合が良かった。
ちょうど高麗山の山頂には高麗権現社があったので、それを高麗寺本堂に移し、「高麗神社」に改称した。1897(明治30)年、に「高来神社」に改称、現在に至っている。
火事でこの場所に移った慶覚院
さて、次は今回の散策コースの目的地である「高来(たかく)神社」へ向かう。
今来た道を戻り、国道1号線手前の十字路を左へ折れる。この路を200メートルほど行くと、国道1号際にある一の鳥居のところに出る。
もっと手前を折れれば本殿脇に直接出ることもできるが、やはりここは参道を通ってゴールしよう。
高来神社までの路は正直言ってあまり情緒がない。
鳥居の前に着いたので、そこから参道を通り社殿へ……。途中、天台宗の慶覚院がある。もともとこの寺は北下町(大磯駅に近く1号線より海側)にあったが、1882(明治 15) 年 3月に起きた大磯駅近辺の大火により類焼してしまった。
しかも、その8年後の明治23年には南下町で大火が発生。西風に乗って北下町にまで火の粉が飛んできたという。最初の火事の後、寺を再建していたかどうかは不明だが、「こんな頻繁に火事があったらたまらん」というわけであろう、明治23年の12月に、檀家の多かった高麗地区のこの場所、ちょうど高麗寺の地蔵堂があったこの場所に移転してしまったのだ。(もともと高麗寺の末寺だった慶覚院は、高麗寺が廃寺になったとき、ご本尊だった千手観音を預かっていた、というような縁もあった)
高来神社の春祭り、高麗寺祭では「山神輿」が…
高来神社では4月中旬に『高麗寺祭』(こうらいじまち)という春祭りが行われ、「山神輿」(やまみこし)が登場する。これは高来神社から高麗山にある上社まで神輿を担ぎ上げる祭りである。担ぎ上げると言っても、道筋になっている男坂はジグザグ状の急勾配だ。そこを道なりに進まず、もっと直線的に引き上げてしまおうというのだ。
神輿の前棒に付けられた長さ80メートル余りの太い引き綱で、見物客も含め50人以上が力を合わせ引っ張り上げるのである。神輿の左右には、神輿を安定させるための命綱を坂の両側の木に巻きつけ、バランスを取りながら引っ張りあげていく。
最大斜度は60度前後、これは坂というより壁である。絶壁である! そこを人と神輿が一体となって登っていく。こんな祭り、他にあるのか?
神輿を担いで海に入る祭りはいくつもあるけれど、絶壁を引っ張り上げる祭りなんて、聞いたことがない。まさに奇祭である。
だが、誠に残念なことに4月15日に予定していたこの行事も、今年は大震災の影響で中止になっている。しかしながら恒例となっている植木市の方は、16・17日の両日、開催予定。
4月17日は「さかなの朝市&大磯市」を、さらに23日・24日には花の咲く個人のお庭を見学する「オープンガーデン」が予定されている。
自粛ばかりしていては何も始まらない。みんなが下向きになるばかりだ。復興のためにも、ぜひ他のイベントは開催してほしい。そして大磯という町の良さをもっともっとアピールして欲しい。
大磯は小さな町だけれど歴史があり、独特の文化がある。それらに彩られた街並みが、まだ所々残っている。それらを守りながら、今後、どのような町づくりが行われていくのか? 10年後、20年後、大磯はどんな町になっているのだろう……。楽しみである。
「大磯の小路を歩く」は終了したします。
ご愛読ありがとうございました。
※取材に協力してくださった観光推進室の皆さん、観光協会の皆さん、大磯ガイドボランティアの皆さん、さらに快く取材をさせてくださった地元の方々にあらためて感謝いたします。
取材協力大磯ガイドボランティア協会
大磯町観光協会
大磯町役場観光推進室・都市計画課参考資料「おおいその歴史」大磯町発行
「大磯町史」大磯町発行
「大磯町史研究」大磯町発行
「大磯俳句読本」大磯町観光協会発行
「大磯まち歩きマップ――駅周辺」大磯ガイドボランティア協会発行
大磯町役場観光推進室運営管理HP Isotabi.com(イソタビドットコム)
インターネット上のフリー百科事典「ウィキペディア」
「ふるさと大磯」高橋光著 郷土資料研究会発行
企画・監修 : 株式会社ジェイ企画 ※無断転載禁止